歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ワープロを武器に?



ヤクルト・栗山英樹

 この2020年で9年目を迎えた日本ハムの栗山英樹監督だが、就任の際に、それまで大学で教鞭を執ったことはあったもののプロ野球の指導者としての経験はなかったことから、その手腕を疑問視する声が多かったのは記憶に新しい。だが、1年目から日本ハムはリーグ優勝。下馬評を完全に覆した。この姿を見て、その現役時代を思い出したファンもいたかもしれない。このときも、ほぼ実績がないテスト生としてのスタートだった。

 ほとんどのプロ野球選手が、少年時代からプロを夢見て野球と向き合っていたことだろう。だが、栗山は教師を目指していた。この点でも、この男は異色だ。ただ、野球と関わっていなかったわけではない。甲子園の常連でもある東海大相模高のセレクションに合格したこともあるなど、少年時代からポテンシャルを秘めていたものの、自宅から通えるという理由で創価高へ。3年生で主将、そしてエースに。春には都大会でベスト4進出を果たしたが、国立の東京学芸大に進学する。

 野球部に在籍し、東京新大学リーグで2度の優勝、大学選手権にも出場したものの、ここで教員免許を取得。教師という目標に、着実に近づいていた。だが、慶大のスター選手で、わずか3年で歴史の幕を閉じた高橋(トンボ)で新人ながらリーグ最多安打を放った佐々木信也が練習試合に居合わせたことで運命が変わる。評論家として活躍していた佐々木の目に留まった栗山は、西武、大洋、そしてヤクルトのテストを受け、ヤクルトだけ合格。教員免許を持つプロ野球選手が誕生したのは1984年のことだ。

 だが、プロのレベルは別次元だった。なかなか打球が前に飛んでいかない。さらに、メニエール病を発症する。目まいや吐き気にも苦しめられたが、どうにか集中治療で克服。猛練習を積み重ねて、ベース1周14秒の俊足を生かすためスイッチヒッターにも挑戦、手の感覚がなくなるほどバットを振り込んだ。徐々に結果も出てくる。翌86年には107試合に出場。リードオフマンとして打線を引っ張り、規定打席には届かなかったものの、打率.301の安定感を発揮した。

 栗山の必需品はワープロ。21世紀に生まれた若い人にはワープロといってもピンとこないかもしれないが、これを説明し始めると長くなる。当時はノートパソコンやスマートフォンなど便利なものはない。なにかメモを取るときには手書きが当たり前だった時代。コーチからのアドバイスなどをワープロに記録していた栗山は、やはり異色な選手だった。

わずか2年の全盛期



栗山の現役時代のオフショット

 レギュラーに定着したのは88年6月。故障で出遅れたものの、戦列に復帰すると打棒が爆発した。初球から積極的に打ちにいく思い切りの良さを武器に、閉幕まで猛打賞は8月の3試合連続を含む12回、最終的に打率.331と打ちまくる。規定打席までの残り33打席すべてで凡退しても打率3割をクリアする勢いは、翌89年も続いた。一度も故障などでの離脱がないままキャンプを打ち上げ、開幕から中堅のレギュラーを確保すると、4月だけで27安打を放って打率.351。その後は二番打者に徹したこともあって打率は下げたが、6月4日の中日戦(神宮)では全4打席で犠打を成功させて、ゲーム4犠打のプロ野球記録もあった。

 最終的には自己最多の125試合に出場して37犠打。初めて規定打席に到達して、外野のゴールデン・グラブも受賞した。俊足を飛ばしての広い守備範囲、ダイビングキャッチでの球際の強さは栗山にとって最大のアピールポイントで、「これはイケると思って飛び込んだときは、ほとんど捕ってます」と胸を張る。だが、これが選手としての最後の輝きになってしまった。

 その翌90年は69試合に出場したが、メニエール病の再発や右ヒジの故障などもあって、オフに現役を引退する。まだ29歳、わずか7年の現役生活。全盛期も短く、不完全燃焼だったようにも見えた。時は流れて21世紀。すでに監督としての時間のほうが長くなった。異色の男が立場を変え、北の大地で続ける異色のキャリアは、まだまだ終わらない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM