負けないエース



ダイエー時代の03年、20勝をマークして優勝に貢献した斉藤(左。右は王監督)

 今から6年前の2014年。週刊ベースボールの「球界200人が選ぶ歴代投手ランキング」という企画で2位に選ばれたのがダイエー、ソフトバンクのエースとして活躍した斉藤和巳だった。3位が「トルネード投法」で日米を席巻した野茂英雄、4位が楽天、ヤンキースで高いパフォーマンスを発揮している田中将大。名投手たちより順位が上だったことが、すごさを物語っている。

 斉藤に投票した元ヤクルトの宮本慎也は「闘争心と責任感があった。一番良かったときの斉藤投手は、ダルビッシュ投手よりもすごかったと思います」、当時ロッテの涌井秀章(現楽天)は「どこが、というわけではなく、すべてがそろっていましたからね。とにかくすべてがすごかった」と絶賛していた。斉藤が現役時代に規定投球回数に到達したのは4シーズンのみ。全盛期に強い輝きを放った「負けないエース」だった。

 斎藤の野球人生は故障との闘いだった。南京都高からドラフト1位でダイエーに入団したが、1年目の1996年は右肩の故障で実戦登板なし。ルーズショルダーだったことから98年に右肩に最初のメスを入れる。高校時代に四番を打つなど打撃にも定評があったため野手転向の話も持ち上がったが、斉藤は投手にこだわった。

 頭角を現したのが00年。後半戦で4勝をマークするなど22試合登板で5勝2敗、防御率4.13。この年のパ・リーグ新人王は32年ぶりの該当者なしだったが、最も票が入ったのは斉藤だった。だが、01年は原因不明の右肩痛が再発して未勝利。潜在能力は高いがケガが常につきまとう。斉藤自身が一番歯がゆかっただろう。

 03年に覚醒する。3月28日のロッテ戦で初の開幕投手を務めて白星を挙げると、当時プロ野球新記録の16連勝を達成。20勝3敗、防御率2.83でリーグ優勝、日本一に貢献する。最多勝、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞などタイトルを総ナメにし、内容も圧巻だった。優勝争い最大のライバルだった西武から6勝を挙げ、松坂大輔との「エース対決」で3戦全勝した。

 150キロ近い直球に、140キロ台の高速フォークで三振奪取率が高く、スライダー、カーブも精度が高かった。アウトを1つ奪うたびに雄叫びを上げるなど、気迫を前面に出す投球スタイルは見る人間の心を強く揺さぶった。05年は8月31日のロッテ戦でプロ野球タイ記録の開幕15連勝を達成。「14連勝以上を複数回達成した投手」は史上初だった。

ケガに苦しんで



ソフトバンク時代の06年には18勝で2度目の沢村賞に輝いた

 斉藤の活躍は次元が違うレベルだった。06年は18勝5敗、防御率1.75、205奪三振、勝率.783で最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率に輝く。5完封もリーグトップで、平成唯一の投手5冠王に。パ・リーグ史上初の2度目の沢村賞を受賞した。ただ、読者の印象に残っているのはこの年の第2ステージ・日本ハム戦ではないだろうか。8回まで無失点も9回に失点してサヨナラ負け。斎藤はマウンドに片膝をつき涙を流したまま立ち上がれず、ナインに肩を担がれて三塁ベンチに消えた。ポストシーズンは通算10試合登板で0勝6敗。好投しながらも白星と縁がなかった。

 翌07年。4月に右肩の筋疲労でファームに降格する。7月に復帰するも、10日以上の間隔を空けて登板。10月8日のクライマックスシリーズ第1ステージ・ロッテ戦の初戦に先発したが、4回5失点で敗戦投手に。これが現役最後の登板になるとはこのとき、誰も想像できなかった。

 08年1月に右肩関節唇修復手術を行う。この年はリハビリに専念して翌年の開幕投手を狙うと宣言した。当時日本ハムのダルビッシュ有が契約更改で「来年はソフトバンクの斉藤さんが戻ってくるので」と対戦を心待ちにしていたが、右肩の状態は良くならなかった。10年2月に右肩腱板修復手術を受け、11年に支配下登録選手から外れ、リハビリ担当コーチに肩書きを変えて復帰を目指した。

 球団も復帰が可能となった時点で選手契約を再締結する方針を示して復活を願ったが、13年7月に現役引退を決断する。9月28日に本拠地・ヤフオクドームで開催された引退セレモニー。「ケガに始まり、ケガに苦しみ、ケガに終わった18年間でした。でも僕はケガをしたことで大事な先輩とも出会い、いろいろなことに気づかされて感じることができました。今は正直ケガをしてよかったと素直に思います」と目を真っ赤にした。

 プロ通算150試合登板、79勝23敗(勝率.775)、防御率3.33。野球人生の大半が右肩痛との戦いで光り輝いた期間は長くなかったかもしれないが、誰もが認める「平成の大エース」だった。

写真=BBM