斎藤隆がドジャースとマイナー契約を結んだのは2006年2月7日。36歳の誕生日の1週間前であった。腰痛など故障に悩み、日本では「終わった選手」とみなされていた。自身「現役最後に夢をかなえたい。メジャーで投げたい」との思いで海を渡ったのだった。

入団会見は駐車場の囲み取材



ドジャース時代の斎藤隆

 期待されていたわけではなかったので、入団会見は寂しいものだった。高級ホテルやドジャー・スタジアムの豪華なホテルに日米の大勢の記者が集まったのではない。球場の駐車場で、数人の日本人記者によって囲み取材が行われただけだった。

 当時ベロビーチで行われていたスプリングトレーニングには招待選手として参加した。メジャー選手の調整の場であるため、招待選手は悲哀を味わうことになる。打者相手の実戦登板に予定されていたが、メジャーの投手が「予定よりもう1イニング投げたい」と要望し、あおりを食って斎藤の登板機会がなくなったりした。

 結局3月下旬にマイナー降格となり、開幕は3Aで迎えることになった。ラスベガスに向かう前の4月3日、ドジャースとブレーブスの開幕戦を家族とともにドジャー・スタジアムのスタンドで観戦した。グラウンドを見下ろしながら「パパが投げたいのはここなんだよ」と、娘に誓った。マイナーで必死に頑張るつもりだったが、夢は意外と早く現実になる。故障者が出たためメジャー昇格。4月9日のフィリーズ戦で初登板を迎えた。3対3の8回裏一死一、二塁で登板し、現在レッズ監督のデービッド・ベルを投ゴロ併殺に仕留めてデビューを飾った。

 この年のドジャースは守護神のエリック・ガニエが故障で離脱。レイズからトレードで来たダニス・バエズがクローザーを務めていた。だが4月末から救援失敗が続き、5月に入ると斎藤が締めくくりを任される。5月15日のロッキーズ戦で初セーブを挙げ、クローザーに定着した。1年目は6勝2敗、24セーブ。防御率2.07。ブルペンを出るときには右手で胸をたたいて自身を鼓舞し、大観衆の中をマウンドに向かった。得意のスライダーが、外角に広いメジャーのストライクゾーンで威力を発揮した。先発投手は難しくても、1イニングなら球速も160キロ近くに達した。不思議なことに、腰や背中の痛みも出なかった。

 翌07年にはオールスター戦に選出された。選手生活の最後と思ってやってきたメジャーで7年間プレー。通算防御率2.34は歴代日本人メジャー投手のベストである。もちろん日本でも活躍したが、メジャーで輝きを増した選手の一人である。

『週刊ベースボール』2021年7月5日号(6月16日発売)より

文=樋口浩一 写真=Getty Images