「キューバで伝説の人」



スケールの大きな長距離砲として横浜で開花した多村

 順風満帆な歩みだったわけではない。何度も故障に泣かされてはい上がった。その野球人生には味わいがある。3球団で一軍、二軍、育成枠とすべてのカテゴリーを経験し、国際大会、日本シリーズ、二軍で優勝した経験を持つ唯一の日本人選手・多村仁志だ。

 多村は全盛期に「メジャーに最も近い日本人野手」と称された。キューバ代表で活躍し、アストロズで2017年に球団史上初のワールド・シリーズ制覇、昨年は自身初首位打者を獲得したにユリ・グリエルも「多村さんはキューバで伝説の人。一緒にプレーできるのがうれしい」とDeNAでチームメート時代だった際に尊敬の念を明かしている。攻守走3拍子そろったプレースタイルで、広角に遠くへ飛ばす姿はプロ野球選手たちからも一目置かれていた。

 横浜高で3年春夏に甲子園出場し、高校通算14本塁打をマーク。だが、主役は同級生のスラッガー・紀田彰一だった。紀田は中日、横浜が競合し、交渉権を引き当てた横浜(現DeNA)に95年ドラフト1位で入団。多村は同年のドラフト4位で横浜に入団してプロでもチームメートになる。

 一軍に定着するのは高卒6年目の00年。84試合出場で打率.257、7本塁打を放つと、03年に91試合出場で打率.293、18本塁打、46打点、14盗塁をマーク。01年の秋季キャンプで臨時コーチを務めた落合博満(元中日監督)に受けた指導が覚醒のきっかけになった。

 多村は現役引退した16年に週刊ベースボールのインタビューで、こう語っている。

「そのときはチームメートだったローズ(元横浜ほか)にかわいがってもらっていて、今年まで使っていたバットもローズと同じ形なんですけど、バットをもらって『握り方はこうだぞ』と教えてくれたんです。それでローズと一緒の打撃フォームで打っていたのですが、落合さんから『その打ち方で何時間も打てるのか』と言われて、実際に付きっ切りでスイングしていたら疲れてやっぱり振れなくなってしまうんですよね。するとだんだんと自然な立ち姿になっていって、最終的には落合さんと同じような神主打法のようなフォームになり、『それだ』と教えてもらいました。シンプルで効率のいい動きを学ばせてもらいました」

 背番号を「55」から「6」に変更した翌04年に日本人打者で球団史上初の打率3割、40本塁打、100打点を達成。05年も交流戦でトップの12本塁打を放つなど2年連続打率3割、30本塁打をクリアする。06年に開催された第1回WBCでは準決勝・韓国戦でアーチを放つなどチームトップの3本塁打、9打点をマーク。決勝・キューバ戦も押し出し死球で先制点を生み、5回にも中前適時打と活躍。グリエルら対戦した選手も魅力するスケールの大きなプレーで世界一に大きく貢献した。

日本球界最年長で育成契約



ソフトバンクでも優勝に貢献する打棒を発揮した

 06年オフにソフトバンクにトレード移籍されて以降も、勝負強い打撃で10、11年のリーグ連覇に貢献。11年の日本シリーズ・中日戦では足の指が骨折していたが強行出場し、3戦目にアーチを放つなど打率.370とMVP級の活躍で日本一に導いた。12年オフ、古巣のDeNAにトレード移籍。若返りのチーム方針で15年オフに戦力構想から外れたが、16年に中日と日本球界最年長の38歳10か月で育成契約を結ぶ。故障の影響もあり支配下登録は叶わず、同年限りで現役引退した。

 多村は現役生活最後の1年をこう振り返っている。

「中日には育成で入団させてもらった時点で、支配下にならないといけないという使命感はありましたけど、『今まで培かってきたものを選手に見せてくれ』と言われていました。自分が教えてもらったもの、やってきたものをちょっとでも気づかせてあげられたらと思っていました。選手納会では『多村さんの姿を見て僕らも頑張ることができました』と言ってもらえたので、少しでもいい影響を与えられたのなら良かったですね。今度は自分たちが上の代になったときに、後輩たちに姿勢で示すことができればもっと強くなっていくと思います。今年は本当に充実した1年でした」

 プロ22年間で1342試合出場し、打率.281、195本塁打、643打点、43盗塁。紆余曲折を経た野球人生は大きな財産となり、現在は野球評論家として精力的に活動している。

写真=BBM