流浪の“トレンディー・エース”



87年、ドラフト1位で近鉄に入団した阿波野

 かつて、「人気のセ、実力のパ」と言われていた時代があった。人気では巨人を中心にセ・リーグが圧倒、一方のパ・リーグは実力ではセ・リーグに決して劣らないものの人気では遠く及ばないことを言い表したものだ。長く人気が低迷していたパ・リーグに活気が出てきたのは1980年代の後半。西武の黄金時代もさることながら、実力と甘いマスクを兼ね備えた投手がパ・リーグに並んだことも大きいだろう。その筆頭格が3球団の競合を経てドラフト1位で1987年に近鉄へ入団した左腕の阿波野秀幸だった。

 1年目から15勝を挙げて、即戦力どころかエースに名乗りを上げた阿波野。ともに“トレンディー・エース”といわれ、同じくドラフト1位で日本ハムへ入団した右腕の西崎幸広との激戦を制して新人王に輝いた。2年目は近鉄もリーグ優勝を争って、最終戦ダブルヘッダーで逃したが、その“10.19”で力投を見せた阿波野は悲劇のヒーローに。そして迎えた3年目の89年、自己最多の19勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得、リーグ優勝に貢献して雪辱を果たした。


95年からは巨人でプレーした

 だが、翌90年にボークの適用が厳格になり、一塁への牽制がボークと判定されるようになってから、物語の歯車が狂い始める。これがヒジ痛の遠因になったといわれ、成績も失速。94年オフに香田勲男とのトレードで巨人へ移籍する。巨人はドラフトで阿波野を指名、抽選で敗れた球団でもあったが、新天地で阿波野は白星のないまま97年オフに永池恭男とのトレードで横浜(現在のDeNA)へ。横浜の前身は大洋で、やはり阿波野をドラフトで指名した球団だった。


現役最後の3年間は横浜のユニフォームを着た

 その横浜を率いていたのは近鉄の投手コーチとして阿波野を指導した権藤博監督。阿波野は権藤監督の下で左のセットアッパーとして復活、50試合に登板して38年ぶりリーグ優勝、日本一に貢献している。阿波野は横浜で2000年いっぱいまでプレー。“トレンディー・ドラマ”のように始まった阿波野の物語は、ドラフトで指名された3球団をトレードで渡り歩き、すべてのチームで日本シリーズに出場、最後の横浜で初めて日本一を経験する不屈の物語として幕を下ろしている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM