誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

我が道を行く男



近鉄入団3年目のころの山本

「ドラちゃんはピッチャー、クビや」

 その新人選手は、春季キャンプで忘れ物を届けた一軍のコーチの部屋でいきなりそう通告される。風貌がドラキュラに似ていることから、“ドラ”と呼ばれるのは近鉄時代の山本和範である。守備走塁コーチの仰木彬は酒豪で知られ、すでに部屋の床には空のウイスキーのボトルが数本転がっていた。山本の著書『マイストーリー・マイウェイ』(デコイブックス)によると、急な展開に唖然としていたら、隣の杉浦忠投手コーチからも「明日からバッティングの練習をしなさい、ということだよ」とダメ押しされてしまう。野手転向という野球人生を左右する重要なことを酔っ払いながら言われたこともショックだった。

 実は入団直後から、練習でコーチの投げるボールが遅すぎるとホームベースより2メートル前に立ち、右翼場外へ打球をかっ飛ばした山本の打撃は高く評価されていたことを本人は知る由もない。18歳で巨人の入団テストを受け合格していたが、山本は高校1年時に留年しており、母の強い希望もあり、学業を優先させ入団は見送った。翌年秋も巨人と南海ホークスのテストを受け、南海二軍監督の穴吹義雄監督は「南海は君を4位か、5位か、6位で獲るつもりでいる」と声をかけてくれたという。しかし、76年ドラフト会議では近鉄が5位指名。当時の近鉄は、指名を受けた選手の父親が「こんなこといったら失礼ですが、人気のセに指名してもらえればよかったのですが……」と嘆くほど敬遠されがちで、同年の1位右腕・久保康生も「パ・リーグはどうも気のりしません。まして近鉄についての知識などありません」なんて迷惑顔。そういうチームで山本のプロ生活は始まった。

 しかし、キャンプ中に投手から打者転向、さらに1年目が終わると内野から外野コンバートを命じられる。左耳が生まれつきの難聴で、守備が下手なのは打球音が聞こえないからと陰口を叩かれるのが悔しかった。今に見てろよとひたすらバットを振り、二軍で打率3割を超え、ウエスタンベストテンの常連になっていく。死球を受けても「当たってません!」と審判に食い下がってまでタイムリーを狙い、週べ選手名鑑で趣味を聞かれ、他の選手が「ゴルフ」や「レコード鑑賞」と無難な回答をする中、ひとり「無趣味」と答える。そんな不器用な男を周囲は、変わり者と呼んだ。

 我が道を行く若かりし日のドラ山本だったが、ファンレターをくれた女性と文通を続け(のちに結婚)、寮では「マージャンでもドラは大切。だから、オレはドラなんだ」なんつってマージャンを楽しんだ。元同僚の金村義明は、門限を破って寮に帰ってきた山本は怒るコーチに向かって、「腹が減ってはバットは振れん!」なんて逆ギレをかましたが、みんな「それは門限破りと関係ないやん!」と心の中で突っ込みを入れたと自著『80年代パ・リーグ今だから言えるホントの話』(徳間書店)の中で楽しそうに回想している。

厚かった一軍の壁


「20万円、上げてください」

 山本はある年の契約更改では球団側にささやかな要求をするが、2度目の交渉が終わった翌朝、球友寮の電話が鳴る。すると、球団代表はねぼけまなこの若者にこう告げた。

「ファームはあくまで選手の養成をする場所だ。こちらの提示する額が気に入らなければ契約しないでよろしい」

 野球で成り上がるために九州から一人で大阪に出てきたのに、こんなことで終わってしまうのか……。焦った山本は必死に頭を下げ、本堂保次二軍監督の仲介もあり何とか契約にこぎつけた。そして同時に悟るのだ。まだスマホもインターネットもない時代、週べ掲載のウエスタン打撃成績を見ることが励みであり、楽しみだった。だが、ファームで打率3割を残そうが、二軍の成績に意味はないと。

 転機はプロ4年目だ。一軍で初の開幕スタメンを勝ち取り、時間はかかったが初安打や初本塁打も記録した。その年の秋にはアメリカ野球留学のメンバーにも選ばれ、センターで使ってもらい、打球判断や素早い送球の基礎を学び、不安を持っていた外野守備のコツみたいなものを掴んだ。しかし、一軍の壁は厚く、年俸は300万円前後をウロウロ。もっとオレに出番をくれと願いつつ、6年目の82年シーズンを終えた契約更改の席で、突然「来季は君とは契約しない」と戦力外通告を受けるのだ。心配した同期入団で同郷の久保が、知人のバッティングセンターの経営者に連絡してくれた。そして、クビになったバットマンは、バッティングセンターの管理人として泊まり込み、店が終わった夜中にひたすら白球を打ちこんだ。

「ぼくはファーム出身です」



南海で出場機会を与えられ、上昇気流に乗った

 だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。そんな山本に救いの手を差し伸べたのは、南海ホークスだった。高校時代の山本がプロテストを受けた際、「ドラフトで指名する」と声をかけてくれた穴吹義雄が一軍監督に就任したのである。どの世界でも、自分を評価してくれる上司との出会いは野球人生を変える。オレは拾われたのではなく、評価されて新しいチームに行くんだ。新天地では前向きな気持ちで野球と向きあった。

 南海ファンで知られる漫画家の水島新司は遠い親戚にあたり、ことあるごとにメディアで「どんなピーゴロでも全力疾走する。人一倍ボールに食らいついていくのです」と注目選手として山本の名前を挙げてくれた。文字通りどん底から這い上がった男は代打から結果を残し、背番号59から29へ昇格。やがて尊敬する門田博光のあとの5番を任せられるようになる。近鉄の6年間でわずか6安打しか打てなかった選手が、84年には115試合で打率.306、16本塁打。85年には自身初の130試合フル出場、守備では1試合3補殺も記録した。プロ10年目の86年にはオールスターMVPと外野部門のゴールデン・グラブ賞を獲得と、一流選手の仲間入りを果たす。それでも、山本は週べ85年6月3日号のインタビューで「ぼくはファーム出身です」と、ファームが自分を育ててくれたと近鉄での長い下積み時代を振り返っている。

「上司にいわれてきちんと仕事したのに、いつまでたっても係長、課長に推薦してもらえない。そういう感じだね、推薦されて場を与えられれば、そこである程度の働きをするんですよ。ちょっと慣れればね。その段階に行く前にまたおとされてしまう」


ダイエーでは押しも押されもせぬ主力選手になった

 チャンスさえあればオレだって……。多くの二軍選手たちはそう願うも、ドラフト下位指名組にはそれすらもなかなか与えられないプロの現実がある。南海からダイエーホークスにチームが生まれ変わると、地元福岡の星として主力を張り続け、南海入団時300万円の年俸は、32歳で5000万円を突破。選手会長にまで選出されるようになった。好物は愛妻が作ってくれる肉じゃが、ホームランを打ってチームが勝った夜にだけ口にするレミーマルタンがささやかな楽しみだ。開業したばかりの福岡ドームで根本陸夫監督は、山本を当時はまだ珍しかったバントをしない攻撃的二番打者として起用する。94年夏には子どもが学校で可哀想だからと、“ドラ”のニックネームから卒業して登録名を「カズ山本」に。イチローに次ぐ、リーグ2位の打率.317の活躍で年俸2億円に到達すると、阪神・淡路大震災の被災地に1000万円もの義援金を送った。

プロ20年目の再出発


 しかし95年は、開幕直後に一塁へ滑り込んだ際に右肩亜脱臼の重症を負い、打率.201、本塁打0と低迷。オフには球団代表から辛辣な言葉を浴びせられ、退団を決意する。だが、一度地獄を見たベテランが下を向くことはなかった。元同僚で先輩の佐々木恭介が指揮を執る近鉄に誘われ、テストを受け合格。14年ぶりの古巣復帰を決断した直後の週ベ96年1月29号のインタビューでは、山本選手と言えば82年も自由契約となり苦労から這い上がったストーリーが……と質問され、こう笑い飛ばしている。

「そんな話ウソ、ウソ。みんなの思い込みですって。苦労なんかしとらんて。本当に。今回も、その82年も。苦労とか、そういうのは考え方ですよ、考え方。人生はおもしろかよ、苦しいこともあるけど。僕なんか特に、人が普通なら体験できないことを体験してますから」

 大阪に戻り、プロ20年目の再出発。近鉄では、前年2億円の年俸も4000万円+出来高まで落ちた。勝負の96年シーズンは開幕から打率トップを争うほど打ちまくるも徐々に失速。打率は3割を大きく割ったが、野球ファンはその背中に盛大な拍手と声援を送る。オールスターのファン投票で、イチロー、秋山幸二に次ぐ外野部門3位の票を集めるのだ。これが山本にとって初めてのファン投票での球宴選出でもあった。


近鉄に復帰した96年、オールスターで3ランを放ってMVPに

 迎えた96年7月20日、オールスター第1戦、舞台は昨年までホームにしていた福岡ドーム。山本は、6回裏、一死一、三塁という場面で代打として登場すると、初球のストレートを叩き、ライトスタンドへ劇的なスリーランアーチを突き刺す。球場はその日一番の大歓声に包まれ、MVPに選出された背番号92は、お立ち台で涙を流した。なお、この劇弾の直前、「おい、ドラちゃん、代打や!」とベンチ裏で山本に声をかけたのは、全パ監督を務めるオリックスのユニフォーム姿の仰木彬だった。

 20年近く前、ほろ酔いで19歳の山本に投手失格を告げた仰木が、今度は野球人生最高の晴れ舞台に、38歳の山本を送り出したのである。

文=中溝康隆 写真=BBM