旅行需要が急回復し、観光業界は人手不足に悩んでいる。そんな中、山梨県甲府市の老舗旅館で、1人の弁護士が「若旦那」として人手不足の解決策を模索し、従業員教育に奮闘している。山田安人弁護士(35)は、2020年8月に出身地である山梨の旅館「柳屋」の若旦那に就任し、集客や館内の改装に奔走してきた。

有名店の店長に学んだ料理のトークを自ら考え、配膳するなど、現場に入り込んで改善のためのポジティブなアクションを起こしてきた。「自分が悪戦苦闘する姿を従業員に見てもらうことが大事」と語る山田弁護士に旅館経営の難しさや、弁護士の仕事とのシナジーについて聞いた。(ライター・国分瑠衣子)

●「故郷の山梨のために何かしたい」コロナ禍で苦境の旅館経営に関わる

柳屋がある湯村温泉は、JR甲府駅から路線バスで15分ほどの場所にある。開湯1200年ほどの歴史のある温泉だ。

山田弁護士は、中学校を卒業するまで山梨で過ごした。柳屋は過去に一度倒産しかけたが、今の運営会社が経営を引き継いだ。山田弁護士の父親が運営会社の社長と知り合いで、法律に関する相談を受けていた経緯がある。

コロナ禍の客数減で、柳屋は厳しい経営状態になった。山田弁護士は「故郷のために力になりたい」という思いで、2020年8月に若旦那に就任した。「取締役などの肩書きも候補に挙がったのですが、親しみやすい呼び方の方が良いと考え『若旦那』になりました」

今は1週間の大半、東京で弁護士活動を行い、週1〜2日ほど柳屋の仕事をする。若旦那の業務は無報酬だ。若旦那就任を機に家族は山梨に移住した。

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●年末年始は宿泊客100人分の餅を焼く

若旦那になってから山田弁護士が取り組んだことの1つが、配膳オペレーションの改善と料理の説明だ。

「料理の説明は、知り合いの東京の有名店の店長に教えてもらいました。子連れのお客さんは、子どもの世話があり長々とした料理の説明を聞くことは難しいです。だから長いバージョンと短いバージョンの2つを作りました」

配膳オペレーションの改善は試行錯誤中だ。柳屋は懐石料理を出しているが、短時間で全ての料理を出していたため、焼物など温かい食事が冷めてしまうことがあった。このため客の食べるペースに合わせて料理を提供するようにした。

こうすれば客は温かい食事を楽しむことができ、旅館は飲み物の追加注文が期待できる。ただ、宿泊客が多い時は、少人数の厨房が対応しきれないこともあり、目下の課題という。

年末年始など繁忙期にはシフトにも入る。客足が戻った今年の正月は、午前5時から午後9時まで働き、宿泊客100人ほどの餅を焼いた。山田弁護士のこうした姿を見て、「仕事がきついから辞めたい」と言っていた従業員も離職を思いとどまってくれたという。

「僕自身、旅館運営はド素人でスタッフから教えてもらう立場です。上から指示するのではなく、一緒に再建しようという姿勢で、従業員とコミュニケーションをとっています」

コロナ禍で自治体の補助金を一部利用して、ロビーの大規模改装も行った。ところ狭しとテーブルとイスが並べられた「昭和の雰囲気」を変えるため、山田弁護士が原案となるイラストを描いた。新しくなったロビーはモダンな雰囲気で、柳屋自慢の庭園を楽しめる空間に生まれ変わった。

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●仲居さんの派遣もいっぱい コロナ後は深刻な人手不足

コロナ禍では観光需要の喚起策「Go Toトラベル」のさなかにコロナ感染が再拡大し、キャンセルのファックスが数百人分届く厳しい経験もした。そのコロナ禍を乗り越え、日本人客を中心に客足が戻ってきた。

しかし今、旅館やホテル業界は深刻な従業員不足に陥っている。帝国データバンクの調査によると、2023年4月時点のホテル・旅館業界の人手不足企業の割合は正社員が75.5%(業種別トップ)、非正社員は78.0%(同2番目)と他業種と比べても非常に高水準だ。

柳屋も人手不足に苦しむ。柳屋はコロナ禍で従業員が退職しても人員の補充を行わなかった。客足が急激に増えている今、従業員のシフトはかなりきつい状態という。「人材紹介会社に仲居さんの派遣をお願いしようと思っても、供給が追い付かずに人材が確保できないんです」(山田弁護士)

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●週2日は休業日「目先の利益よりも従業員の環境を守りたい」

ギリギリの従業員数で旅館経営を続ける中、柳屋では従業員の労働環境を考え、週2日以上は休館日を設けることを決めた。宿を開ければ客は来る。が、数組しか客が宿泊しない場合、温泉や館内の水道光熱費といった費用を考えると利益率は低くなる。

「コロナ以前は数組の客でも予約が入れば開けていましたが、目の前のわずかな利益よりも従業員の環境を守ろうと方針を変えました。コロナ禍を乗り越えて強くなったところだと思います」

従業員の人間関係にも心配りをする。柳屋で働く仲居さんは20年、30年のキャリアがあるベテランが多い。新しい従業員が入った時に、山田弁護士が間に入り、ワンクッション入れることで関係が円滑になるようにすることも離職を防ぐ大切なポイントだという。また、従業員と個別面談の時間をとり、要望や考えを聞くようにしている。

離職防止や人材獲得のためには、報酬などの待遇を上げることも大事だが、限界もある。スタッフにとって働きやすい環境を整えることが長期的な人材育成につながる。

●カスハラ対策には弁護士業の経験を生かす

弁護士業の経験が生きるのが、宿泊客からの クレームへの対応だ。すぐに謝罪はせずに客と従業員、関係者から話を聞き取り、事実関係を把握する。

「お客様が気分を害したことについては謝りますが、過失がないことについては謝罪はしません」

山田弁護士は、旅館のスタンスを明確にすることは、仲居さんや従業員を守ることにつながると考えている。コロナ禍で客から「配膳の距離が近すぎる」というクレームがあり、現場が動揺したことがあったが、マスクを着用し感染防止対策をして配膳しており「うちはこの配膳のままでいいです。またクレームがあれば僕が対応します」と従業員に伝え、配膳方法を大きくは変えなかったという。

●「湯村温泉、山梨県全体を盛り上げていきたい」

若旦那と弁護士、どんなシナジーがあるのだろうか。

「経営に関わったことで、弁護士業では顧客であるスタートアップの経営者とリーガルチェックだけではなく、事業戦略や経営全般についても話します。幅が広がりました」

コロナ禍での若旦那就任からまもなく3年を迎える。今後について山田弁護士は「集客や接客の工夫などできることはたくさんあるので、取り組んでいきたいです。旅館経営だけではなく、山梨発の起業家を支援する取り組みにも関心があります。湯村温泉、山梨県全体を盛り上げていきます」と話している。