開成、麻布、灘…なぜ名門私学に通うと人生が変わるのか? 明治維新と創立者の歴史

開成、麻布、灘…なぜ名門私学に通うと人生が変わるのか? 明治維新と創立者の歴史

●開成と麻布、2校の創立者の共通点

 私学の歴史や創立者の人生を読み解くと、その行間から、当時のリアルな空気感が伝わってくる。複数の学校史を読み比べれば、教科書で読むのとは違う、歴史の別の側面が立体的に見えてくる。これらは貴重な史料である。

 たとえば2018年は明治維新から150年にあたるとのことだが、私学には、明治維新の「負け組」あるいは「非主流派」がつくった学校が少なくない。薩長藩閥政治の中では自らを活かせないと感じた一角の人物たちが、青年たちに未来を託すために学校をつくったのである。

 私学の雄・開成。初代校長として高橋是清(1854-1936)が有名だが、彼は創立には一切かかわっていない。創立者は佐野鼎(1831-1877)。幕府直轄地駿河国に生まれ、江戸で砲術を学び、その後加賀藩に招かれた。1860年遣米使節、1861年遣欧使節に随行。洋式兵学のテクノクラート(技術官僚)として徴用された。1860年といえば「桜田門外の変」の年である。

 維新後、一度は新政府の兵部省に出仕するも主流派たり得なかった。忸怩たる思いがあったのだろう。すぐに辞め、1871年に「共立(きょうりゅう)学校」を設立する。しかしそれからたった5年で急逝。経営難に陥った学校を救ったのが当時若干25歳の高橋是清だった。

 高橋は江戸に生まれてすぐに仙台藩の足軽の家に養子に出された。横浜でヘボンに英語を学び、渡米するも、現地で奴隷とされてしまう。大政奉還のときには、アメリカで奴隷の身だった。自力で交渉し、奴隷契約を解消して帰国。現地仕込みの英語を教えるなどして暮らしていたところ、1879年、白羽の矢が立ったというわけだ。

 しかし高橋は1890年に校長の職を辞し、鉱山経営のためにペルーへ渡ってしまう。そこから共立学校は再び経営難に陥り、一度は東京府立に移管された。「東京府立共立」ではつじつまが合わないということから、このとき「開成」に学校名が変更された。『易経』の中にある「開物成務」に由来する。

 府立となることで経営的な安定は得たものの煩わしさもあった。そこで1901年に再び私立に復帰し、現在に至る。

 麻布の創立者・江原素六(1842-1922)は、江戸の下級武士の子として生まれた。苦学して西洋の砲術を身に付け、19歳の若さで幕府の武術講習所・講武所の砲術世話心得に抜擢される。幕臣として長州征伐などに参加するが、大政奉還。鳥羽・伏見の戦いでは江戸に敗走するも追いつめられ、一度は切腹を覚悟する。それを引き留めたのが近藤真琴(1831-1886)。江原の洋学の師であり、現在の攻玉社の開祖でもある。

 大きな変革の中にいることを自覚した江原はなおも抵抗を続ける幕臣たちを鎮撫しようとしたがかなわず、自らも市川・船橋戦争に加わることになる。そこで敵に殺されかけ、すんでのところで部下に救われる。朝敵として追われる身となった江原は、徳川宗家が転封された静岡藩の沼津に身を隠した。

 恩赦によって「罪」を赦されると、沼津兵学校を統括するなど沼津を拠点に活躍。1871年には欧米視察団の一員として渡米もしている。その後、キリスト教に改宗。板垣退助(1837-1919)と出会い自由民権運動にも力を注ぐようになる。

 実は麻布は江原がゼロからつくった学校ではない。当時明治政府からキリスト教教育を否定され経営難に陥っていたミッションスクールの東洋英和学校を立て直すために、断腸の思いでキリスト教との関係を断ち、それを麻布中学にリニューアルしたのだ。

 佐野鼎と江原素六の共通点は、維新の「負け組」あるいは「非主流派」というだけでなく、早くから西洋式の砲術を学んでいたこと。いまでいえば最先端のITやAI(人工知能)技術をいち早く身に付けていたということになろうか。また、若くして海外の空気に触れている点も似ている。

●浅野、武蔵、灘の創始者の援助を受けた巣鴨

 時代が移って大正時代(1912-1926)には、教育熱が高まり、1920年代には多くの学校がつくられた。1920年浅野、1921年武蔵、1922年巣鴨、1927年灘など。

 浅野は実業家・浅野總一郞(1848-1930)が、アメリカ視察で見た、工業地帯での職業教育プログラムを模して設立した学校。浅野は、加賀藩が治める富山国の医家の生まれで、「セメント王」として名を馳せた。日本における「資本主義の父」であり徳川慶喜の家臣でもあった渋沢栄一(1840-1931)とも親交が深かった。

 武蔵の開祖は、東武鉄道のオーナーで「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎(1860-1940)である。根津は幕府直轄領の甲斐国の豪商に生まれ、若い頃は自由民権運動にも携わっていた。1909年に渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加したとき、アメリカの実業家たちが文化活動や教育活動に多額の寄付をしているのを目の当たりにし、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」として武蔵をつくった。

 ただし、浅野にしても根津にしても、あくまでもスポンサーの立場に徹し、教育実務は現場の教育者に委ねていた点が共通している。

 灘は、灘の酒蔵がつくった学校だ。「菊正宗」の嘉納家と「白鶴」の嘉納家と「櫻正宗」の山邑家という3つの豪商が出資した。創立者とされるのが「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎(1860−1938)。菊正宗の嘉納家の分家筋に当たる。かつて幕臣・勝海舟(1823-1899)が海軍操練所をつくるとき、嘉納治五郎の父のところに身を寄せていたというエピソードも残っている。大阪もまた江戸時代には幕府の直轄地であり、周囲には大きな藩がなかった。特に阪神間は商人の街として栄え、民間主導の文化の強い土地柄だった。

 嘉納治五郎は10歳のときに父に連れられて上京。学生時代に「柔術」を「柔道」として再編し、「講道館」を創設した。また31歳の若さで第五高等学校(現在の熊本大学)の校長に就任し、33歳で東京高等師範学校の校長になると、その後約四半世紀にわたってその職にあった。中等教育のプロ中のプロである。さらに1909年にはアジアで初の国際オリンピック委員会委員に就任。1940年の「幻の東京オリンピック」誘致を成功させるなど、当代きっての国際人としても知られた人物だ。その彼が、理想の学校として、灘をデザインした。

 巣鴨の創始者は文学博士・遠藤隆吉(1874-1946)だ。遠藤の父・千次郎の経歴が、開成の佐野鼎や麻布の江原素六に似ている。前橋藩の下級武士であったが幕府の直轄地であった伊豆の韮山で西洋式の砲術を学んだ。しかし前橋藩は戊辰戦争で幕府側に立ち、「負け組」になってしまう。辛酸をなめる中でもうけた子に、隆吉という名を付けた。西郷隆盛と福沢諭吉を敬愛しており、一文字ずつをとったと考えられる。

 赤貧生活にもかかわらず、千次郎は自分の武具や蔵書を売ってやりくりし、隆吉を東京帝国大学に通わせた。隆吉も一切遊ばず、勉学にいそしんだ。卒業後、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の研究科で社会学を教えることになった。このときの上司が、前出の嘉納治五郎そのひとである。教え子には、のちの府立第一高等女学校(第一高女、現在の都立白鷗高校)校長の市川源三(1874-1940)がいる。市川はその後、第一高女の卒業生たちが興した鷗友学園の校長も務めている。

 浅野、根津、嘉納の3人と、遠藤の一番大きな違いは、資金である。遠藤は優れた学者であったがお金がなかった。そこで遠藤は、学校設立の資金を得るために、元満州鉄道総裁で当時東京市長であった後藤新平(1857-1929)を頼る。

 後藤は、自身を含め当時の財界の有力者8人を一堂に集めた。その中には浅野總一郞と根津嘉一郎と嘉納治五郎もいた。浅野、根津、嘉納そして後藤本人を含む7人が援助の約束にサインした。浅野も根津も巨額を投じて自分の学校をつくったばかりである。それでも後藤に頼まれては断れなかったのであろう。

「平民宰相」と呼ばれた原敬内閣が発足したのが1918年。藩閥政治に対するアンチテーゼとしての大正デモクラシーの気運が高まっていた時期である。今からちょうど100年ほど前、明治維新から数えれば50年ほどたった頃。それでも維新の「負け組」あるいは「非主流派」の流れを汲む面々が、私学を創設したのである。

 以上はごく一部の男子進学校のみを取り上げたが、そのほかにも私学にはそれぞれにユニークな生い立ちがある。そしてそのあゆみをたどっていくと、実は創設者たちが互いに影響を与え合っていたり、意外な共通点があったりすることがわかる。

 私学に学ぶということは、その歴史的視点を身に付けるということ。どんな学校に通うかによって、世の中の見え方が変わり、振る舞いが変わり、人生が変わることがある。それが名門校の名門校たるゆえんである。
(文=おおたとしまさ/教育ジャーナリスト)


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