「罪の轍」 歴史に刻まれた哀しいエポック 朝日新聞書評から

「罪の轍」 歴史に刻まれた哀しいエポック 朝日新聞書評から

罪の轍 [著]奥田英朗

 9・11事件や原発事故やリーマン・ショックや……歴史の転換期にはエポックとなる事件が起こる。というより事件によって私たちは時代が大きく変化したことをいやおうなく認識させられる。東京オリンピックという輝ける祭典を翌年に控えた昭和38年に起きた「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」は最たるもので、日本中を震撼させると共に、時代の変化を万民につきつけた。
 本書が「吉展ちゃん事件」を考慮して書かれたことは、被害者の男児が吉夫という名であることからも推測できる。でももちろん、『最悪』『邪魔』といったミステリーや『空中ブランコ』をはじめ精神科医・伊良部シリーズなど数多の本で私たちを翻弄してくれる著者だから、ドキュメンタリーどころかモデル小説とも異なり、迫力満点の圧倒的エンターテインメント小説である。冒頭から手に汗にぎる展開は、誘拐事件の経緯だけにとどまらない。内部闘争に明け暮れる警察組織を軸に山谷の在日朝鮮人一家、やくざ、弁護士、新聞記者、ストリップ劇場の踊り子……と次々に登場する人物たちは強烈な個性をぷんぷんさせて、実物以上に生々しい。六百㌻近い大作ながら、読み始めたらやめられない怒濤の面白さだ。
 さてもう一度、エポックについて。来年は再びオリンピックがやって来る。著者が本書を書いたのもそれがひとつのきっかけだったと思われるが、この小説を読むと今の私たちの現実とシンクロしているようでそれがまた胸に迫る。たとえば電話。本書の時代はまだ全国で二百万世帯程度にしか普及していないものの「あと数年もしたら電話が普通になる。そうなれば発信者が特定されず、誰でも匿名で物を言うことが出来る」。主人公の一人、刑事の昌夫は大変な世の中になると途方に暮れる。さらに音声テープ。「警察が市民からの情報に振り回される事態など、過去にはなかったことである」。そしてテレビも。「馬鹿が一万人に一人の割合としても、分母が一億人なら一万人の馬鹿が出現する。全国津々浦々まで行き渡るってえのは、こういうことでしょう」
 これってSNSに置き換えたら今も当てはまるんじゃないか。そのことを象徴するように、貧困や虐待や家族関係の崩壊が生み出した不条理な殺人は、現在も後を絶たない。犯人の生い立ちが克明に描かれ、心身の欠陥もあらわになり、事件は解決しても、なお、人の心の闇は晴れない。
 轍(わだち)は、懸命にその跡をたどって真相をつきとめる、昌夫たち警察官の捜査の象徴のように思える。あるいは犯人の半生の、悲惨な軌跡かもしれない。そしてまた、歴史の流れの中に刻まれた哀しいエポックの残滓だと私は思った。
    ◇
おくだ・ひでお 1959年生まれ。作家。97年に『ウランバーナの森』でデビュー。2004年に『空中ブランコ』で直木賞、07年に『家日和』で柴田錬三郎賞、09年に『オリンピックの身代金』で吉川英治文学賞受賞。


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