年末は何故こうも、前もって片づけねばならないことが多いのだろう。お歳暮の支度、年賀状の発注、おせちの注文に大掃除。ああ、甥(おい)っ子たちのために、お年玉の準備もせねば。何事も直前にならないとやり始められない私にとって、正直、この世の中を挙げての前倒しっぷりはおよそ信じがたい。ただ昨年から一つだけ、注文カタログをめくりつつ、はたと手が止まる事柄がある。それはクリスマスケーキの予約だ。

 中学からキリスト教主義の学校だった私にとって、クリスマスは馴染(なじ)み深い行事。一時期働いていた美術館の学芸課長さんがクリスマス好きで、スタッフ全員にプレゼントを下さっていたこともあり、カードを送ったり、ケーキを食べたりといったイベントをつい先日まで続けていた。

 しかし二年前の十二月二十三日、親しかった歴史小説家・葉室麟さんが突然に逝ってしまって以来、私にとってクリスマスは違う意味を持ち始めた。お通夜のため降り立った博多駅の華やかなネオン。お葬式を終え、虚脱しながら座ったホテルのラウンジの大きなツリー。そして泣きつつ戻った家の冷蔵庫に入っていた、一切れのケーキ。

 実は家族は気を遣って、「食べておこうか?」と連絡をくれていた。それを断って残してもらっていたケーキは賞味期限を過ぎて少し乾き、艶(つや)を失ったイチゴがかえって生々しく感じられた。

 正直、味なぞ覚えていない。あんなに無理やりケーキを食べたのは、後にも先にもその時だけだ。途中で、ひそかに甘いもの好きでいらした故人の思い出がこみ上げて涙がこぼれ、とにかく皿の上のものを急いで口に押し込んだ。

 クリスマス自体を嫌いにはなれない。いや、きっと多分、まだ好きだ。しかし今はまだどうしても、クリスマスケーキだけは買えない。おかげで苦手な年末年始の支度が少しだけ楽になり、それがまたこの季節にこみ上げる哀(かな)しみを強くする。=朝日新聞2019年12月4日掲載