1. ひきこもり

 ドアを開けると、デスクトップパソコンに向かう彼女の姿があった。
 モニターから放たれる光のほかに明かりはなく、室内は暗い。今日もまた、日が暮れたことにも気づかず夢中になっていたらしい。嘆息しつつ、壁にある照明のスイッチを押した。
「目が悪くなるよ」
 声をかけても、彼女はうつろな眼差しを画面から逸らさない。胸のあたりまである黒髪はぼさぼさに乱れ、頬には赤いニキビができていた。近寄ると、汗のにおいが鼻をついた。
「お風呂くらい、ちゃんと入りなよ」
 彼女はほとんど誰とも口を利いていないことが明らかなかすれ声で、かったるそうに返事をした。
「いい。ずっと家にいるから、大して汚れてない」
「そんなことないって。お風呂、沸かしておいたから」
 うながすと、彼女はしぶしぶといった感じで椅子から立ち上がった。彼女が着替えも持たずに出ていったあとの部屋を見回せば、床には足の踏み場もないくらいに本や漫画の類、あるいは冷凍食品の食べかすなどが散乱している。僕が渡した、ひきこもりについて専門家が著した新書や元ひきこもりが体験談を綴った本は、開かれた気配もなく打ち捨てられていた。
 もうどのくらい、こんな生活が続いただろう。パソコンのモニターに表示された、BL――男性どうしが恋愛する――漫画を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。

 彼女と同棲(どうせい)するようになったのは、学生時代のある出来事がきっかけだった。
 当時、僕と彼女は大学のクラスメイトで、講義などでしばしば顔を合わせる関係だった。とはいえ内気で友達が少なかった彼女と僕が口を利くことはなく、あの一件が起きるまでは、互いの顔と名前すら一致していたかも怪しい。
 ある日の語学の講義が始まる前のこと、教室に入ってきた彼女が、うつむきがちに空席へと歩いていくのが見えた。そのとき教室の中央あたりでは、四人の男子が集まってしゃべっていた。そろって派手な色に髪を染め、ピアスをつけていて、必要以上の大声でまわりに威圧感を与える、同じクラスでも僕が敬遠しているグループだった。
 そのうちのひとりが、ふざけて別の男子を軽く小突いた。男子はふらふらと後方によろめき、折しも背後を通りかかった彼女にぶつかった。彼女は床に倒れ込み、肩にかけていたトートバッグの中身が散乱した。
 バッグから飛び出た白い紙の束を、ぶつかった男子が拾い上げた。そして、教室中に響き渡る声で言った。
「何だこれ。気持ち悪」
 その紙には、上半身裸の男性二人が抱き合う絵が描かれていた。のちに知ったことだが、彼女はBL漫画を描いて同人活動をしていたのだ。
「返して」
 彼女は青ざめて紙を取り返そうとする。けれども男子は紙を高く持ち上げ、彼女を押し返しながら笑った。
「おまえ、これ自分で描いてんの? やばくない?」
 仲間の男子に紙を見せ、彼らもまた口々に彼女を罵り、騒ぎが大きくなる。彼女は歯を食いしばってじっと耐えていた。
 その姿を見ていたら、中学生のころの記憶がよみがえった。近所に住んでいた女の子がいじめに遭っているのを知りながら、僕は見て見ぬふりをして過ごした。その子はしばらくして転校してしまった。僕はその子のことが気になっていたのに、助けようとせず、最後まで何の力にもなれなかったことをずっと後悔していた。
 あの子の苦しげな表情が、目の前の彼女と重なった。
「やめろよ。かわいそうだろ」
 僕が席から立ち上がって言うと、騒いでいた男子たちが一瞬にして鎮まった。彼女にぶつかった男子が、僕のほうに詰め寄ってくる。
「何おまえ。あのオタク女に気があんの?」
「そういうんじゃない。人の趣味をバカにするのはよくないと思っただけだ」
「ふーん。つーか、もしかしておまえも男が好きとか?」
 話が噛み合わない。僕が無言でにらみつけていると、男子は白けたように紙を投げ捨て、僕の前にある机の脚を蹴ってから吐き捨てた。
「かっこつけてんじゃねえよ。クソが」
 彼女は慌てて紙を拾う。僕のほうをちらりと見てから、逃げるように教室を出ていった。入れ替わりに語学の先生が入ってきたので、騒動はそこでいったん打ち切られた。
 以来、彼女はその語学の講義に姿を見せなくなった。

 風呂から上がってきた彼女が清潔な匂いを発していたので、僕は安心した。
 彼女は僕が用意した下着と部屋着を着ていた。冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出し、ダイニングの椅子に座って飲み始める。
「髪、ちゃんと乾かさないと風邪引くよ」
 向かいの椅子に腰を下ろしつつ、たしなめる。彼女は濡れたままの頭にフェイスタオルを載せていた。
「平気。誰とも会わないから、ウイルスをもらいようがない」
「そういう問題?」
「そういう問題でしょう。あなただって、風邪引かないじゃない」
 確かに僕はもう何年も風邪を引いた記憶がなかった。同じ家の中に感染者がいなければ、当然ながらうつることはない。
「晩ごはん、どうしようか」
「出前でいい。適当に注文しといて」
「また? けっこうお金、かかると思うけど」
「なら、いまからあんたが買い物に行って、作ってくれるとでも言うの?」
 彼女を下手に刺激してはいけない。僕は苦笑した。
「それはちょっとしんどいな。出前にしよう」
 彼女は返事をせずに冷蔵庫に向かい、中に入っているものを点検し始めた。しばらくして、ぽつりとつぶやく。
「焼きそばくらいなら作れそう」
 僕は驚いた。彼女がそのようなことを自分から言い出すのは、とてもめずらしかったからだ。とはいえうかつな発言をして、せっかく芽生えた彼女の気持ちを削ぎたくはなかったので、僕は軽い調子で言った。
「そう。じゃあ、お願いしようかな」
 彼女は冷蔵庫から食材を取り出していく。やがて、キャベツを洗う水の音が聞こえ始めた。

 これ以上欠席すれば単位を落とすという段に至っても、彼女が語学の講義に現れなかったので、僕は彼女の自宅を訪ねてみることにした。
 住所はクラスの連絡網に書いてあった。学生が自主的に作成した連絡網だったので、個人情報保護の意識は低く、全員の電話番号と住所が明記されていた。
 彼女の自宅は、単身者向けの古びたアパートの一階にあった。一回ベルを鳴らしただけでは何の反応もなかった。しかし窓が見えるほうに回ってみたところ、カーテンの隙間から明かりが漏れている。あらためてベルを鳴らすと、やがて鍵の回る音がして、ドアが開いた。
「……どうしてここに?」
 彼女はいぶかしむようにこちらを見た。スコープをのぞいて、訪問者が僕であることを先に確かめたらしい。顔色が悪く、眉の手入れもされておらず、何日も人に会っていないことは容易にうかがい知れた。
「大学、来なよ。次休んだら、単位取れないよ」
 単刀直入に告げると、彼女は目を伏せる。
「いい。あんなやつらがいるところだと思ったら、何もかもバカらしくなった」
「あんなやつらのせいで休むほうがバカらしいよ。親に学費、払ってもらってるんだろ。悪いと思わないのか」
「あんたに何がわかるの」
 彼女がむっとしてみせる。それから、僕のお腹のあたりを両手で押した。
「もう帰って」
「痛っ」
 とっさのことで、反応をこらえるのに失敗した。彼女は一瞬、怪訝(けげん)そうな顔をしたのち、僕のTシャツの裾をめくった。
 僕の脇腹にある大きなあざを見て、彼女が目を丸くした。
「どうしたの、これ」
「……何でもないよ」
「何でもないことはないでしょう。誰にやられたの」
 彼女はすでに、それが暴力の痕であることを見抜いていた。僕は観念し、情けなさを押し隠しつつ答えた。
「あいつらにやられた。あれ以来、目をつけられちゃって」
 その説明だけで伝わったらしい。さすがに悪いと感じたのか、彼女はTシャツから手を放して唇を引き結んだ。
 知られてしまったものは仕方がない。僕は彼女をじっと見つめた。
「それでも僕、大学行ってるよ。あいつらには屈したくないんだ。だから、きみも行こうよ」
 彼女はうつむき、小声でつぶやいた。
「ちょっと、考えさせてほしい」
「待ってるから。きみは、何も悪くないから」
 ドアが閉められ、僕は彼女の住むアパートを出た。自分もつらかったのだけれど、そのときの僕は使命感に衝き動かされていた。

「……どうしてわたしに構うの」
 こちらに背を向けたまま、彼女が訊ねる。野菜を切る手が、ゆっくりと上下に動いている。
「構うって?」
「お風呂に入れとか、髪を乾かせとか」
「きみに元気でいてほしいと思ってるんだよ。それだけだ」
「ひきこもりなのに元気でいてほしいとか、バカみたい。どうしてあんたがわたしに構うのか、昔からわからなかった」
「構わないほうがよかった?」
「そうは、言ってないけど」
「その結果が、いまのこのひきこもり生活だもんな」
「やめて。そういうこと、冗談でも言わないで」
 蛍光灯に照らされた彼女の横顔は青白い。
「……中学生のときにね」
 僕は初めて、その話を彼女に打ち明けようとしていた。
「いじめられていた女の子がいたんだ。僕はその子のことが好きだったのに、彼女を助けられなかった」
「だから、代わりにわたしを助けたの? そんなことしたって、その子への償いになんかなりはしないのに」
「わかってるさ。それでも、もう見て見ぬふりは嫌だったんだ。あの日のきみの苦しげな顔が、その子にそっくりだったから」
 彼女は口を閉ざす。包丁がまな板を打つ音だけが、規則的に聞こえてくる。
 僕は何か言わないといけないような気がして、つまらない話題を振った。
「貸した本、読んだ?」
「ううん。あんなの、読んだってしょうがない」
 ずいぶん投げやりなもの言いだ。
「いまどき、ひきこもりなんてそこまで恥じるようなことじゃないよ」
「そんなことない」
「きみは知るべきなんだ。しばらくひきこもりとして過ごした人間が、のちに立ち直って成功した例がいくつもあることを」
「本気で言ってるの?」
「もちろんさ。いまはまだ、その時期じゃないってだけだ」
 突然、彼女が振り向いた。その片手には、いまなお包丁が握られていた。
「もしもあんたがそんな夢見がちでどうしようもないことを、本気で言ってるんだとしたら――」
 包丁の刃が、蛍光灯の明かりを反射してきらりと光った。
「いまここであんたを刺して、わたしも死ぬ」

 

 僕が自宅を訪れた翌週、彼女はちゃんと講義に出席した。
 あいつらはもう、彼女など眼中にないようだった。代わりに僕に対する暴力は、日に日にひどくなっていた。そのころには体に生傷が絶えず、しばしば金も奪われた。連絡網に住所が記されていたことが災いして、家の前で待ち伏せされることすらあった。大学生とはとても思えないほど幼稚で、残酷な嫌がらせは続いた。抵抗することも考えたけど、そしたら再び彼女に攻撃の矛先が向いてしまう気がして、逆らえなかった。
 つらくても、彼女が大学に来るまでは。そう思って耐えていた。彼女が講義に出席し、あいつらから何ら危害を加えられないことを確認したら、僕の心が折れた。

「わたしが責任持ってあんたを殺す。そしたら楽になれるでしょう」
 彼女が包丁の切っ先をこちらに向ける。僕は必死で彼女をなだめた。
「落ち着けって。そんなに思いつめなくても」
「じゃあ言ってよ。どうしたら、立ち直って成功できるのかを」
「それはわからないけど、とにかくいまはその時期じゃない――」
「その時期っていつ来るの。もう五年も経つのよ。限界よ」
 彼女は両手で包丁を構え直し、声を震わせた。
「ひきこもりのまま生きてたって仕方ない。それならいっそ、わたしがあんたを殺してやる。わたしのせいで、ひきこもりになってしまったあんたを――」
 椅子から動けない僕をめがけて、彼女が足を踏み出した。

 あいつらの暴力に負けて、僕はひきこもりになった。
 大学に行くのをやめたら、何もかもが億劫(おっくう)になった。当時は独り暮らしをしていたけれど、食べ物や生活必需品はネット通販と出前で何とかなった。何も知らない親からの仕送りは月一でネットバンキングの使える銀行口座に振り込まれ、大学に入ったときに生協でクレジットカードを作っていたため、現金すら不要の生活だった。
 内気で友達が少なかったのは、彼女も、僕もだ。同じクラスのあいつらにとっては、僕なんて取るに足らない、見下して当然の存在だったのだろう。そんな僕に反抗されたから、あいつらの嗜虐(しぎゃく)性に火がついたのだ。それを見て助けてくれる人はいなかったし、僕が大学に行かなくなってからも誰かに心配されることはなく、連絡も自宅への訪問もなかった。
 彼女が僕の部屋に転がり込んできたのは、ひきこもり生活が始まって三ヶ月後のことだ。
 彼女を助けたせいで僕が犠牲になり、その挙げ句ひきこもりになったことに、彼女は負い目を感じたらしかった。今度はわたしがあんたを助ける、彼女がそう言い切ったとき、僕は面食らいつつもその気持ちがうれしかったこともあり、追い返す気力もないままに押し切られた。そうして僕と彼女の、奇妙な同棲生活は始まった。
 そのころから彼女は、同人活動でかなりの額を稼いでいた。その世界では人気の作家だったのだ。大学の学費も自分で払っていると聞いて、僕は親のお金だと決めつけたことを詫びた。
 彼女は大学にかよいながら、僕の家で漫画を描いてお金を稼ぎ、中退を余儀なくされて親に勘当同然の扱いを受けたうえに仕送りも断ち切られた僕を経済的に支えた。彼女は初め、手描きで漫画を制作していたが、やがてパソコンによるデジタル作画に切り替えた。
 新作を発売する即売会が近づくと、彼女は制作の追い込みでしばしばひきこもり同然の生活を送ることがあった。僕らが住んでいるのは、アクセスがよくない代わりに2DKと余裕のある間取りだったので、彼女が忙しくなると僕は邪魔をしないよう、もうひとつの部屋に避難した。そういう時期を除けば、彼女は当たり前に外出するし、大学卒業後も漫画で生計を立てている、真っ当な一社会人である。
 そんな彼女の優しさに甘えて、僕はひきこもり生活を続けた。ときに強がって前向きな風を装い、彼女に構うことで何かの役に立っていると思い込みながら、気づけば時間の感覚さえも失っていた。

 そうか――あれからもう、五年も経ったのか。
 どうやら僕は、彼女に甘えすぎたようだ。
「刺してくれ」
 僕が言うと、彼女ははっと顔を上げる。
 包丁の先端は、僕の腹にあと数センチというところまで迫っていた。五年前、そこにあるあざを見て助けると誓った僕の腹を、今度は彼女が傷つけようとしていた。
「もう、殺してくれ」
 彼女がその場にひざを突く。包丁を持つ手が震えていた。
「刺せるわけないじゃん……そんなこと、できるわけないのに」
 きみは、何も悪くないから。その一言が、出てこない。
 テーブルの上に置かれた鏡に、僕は目をやる。伸ばしっぱなしの髪。最後にいつ剃ったのかも思い出せないひげ。落ちくぼんだ目。真っ白な肌。やせ細った腕。
 これが、僕なのか。あの日、勇敢にも彼女を助けた――。
 どうしたらいいんだろう。僕は濁った息を吐き出す。まな板のキャベツの上をコバエが飛び回り、ダイニングには彼女のすすり泣く声だけが響いていた。


〜女性がひきこもりだと思って読み進めていたのでびっくりした。すっかり騙されました。〜