傾き過ぎぬよう葛藤 それも人生の喜び

 前回、「やられたらやり返す」という復讐(ふくしゅう)は、過剰になりやすいということを書きました。ただ復讐とか報復というと不穏な感じがしますが、他人との関係で心に負担を感じることがあったとき、それを解消したいというのは、人間の自然な心の動きでしょう。「やられる」ではなく「してもらう」とか「いただく」と考えると、またちがった人と人の関係の景色が見えてくるようにも思えます。

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 「いただいたらお返しをする」というのは当然なことで、年賀状、中元歳暮など四季折々のあいさつはもちろん、冠婚葬祭のやりとりなど「お返し」は世の礼節といってもいいでしょう。だいたい、いただいたのにお返しをしないとどうも居心地が悪い。お返しをすれば気持ちもすっきりして互いのきずなも強くなります。

 「いただく」ことが次の「お返し」につながり、互いの関係を深めていくことは、文化人類学の贈与と交換といった考えをもちだすまでもなく、私たちは日々の暮らしの中で肌身にしみて実感しています。

 アメリカの作家、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」は、贈りものをめぐるハートウォーミングな小説として知られています。

 夫のジムが、妻のデラのクリスマスプレゼントに、彼女の自慢の髪を飾る鼈甲(べっこう)のクシを買うため、大切にしていた懐中時計を売り、妻は夫の懐中時計の鎖を買うために、その髪を切って売るという行き違いの物語です。ふたりは贈り物には失敗しますが、互いの愛をしっかりと確かめあうのでした。この短編が物語っているのは、人と人のつながりとは金品の贈与や交換ではなく、心の交流が本質だということなのでしょう。

 ただ、心さえこもっていればいいというわけでもありません。だいたい心は目には見えない。贈り物に見合う返礼品になにを返したらいいのか、あれこれ悩まないではいられないはずです。無償の愛の裏打ちがあるなら、時計の鎖とクシも過不足なく釣り合うでしょうが、世間のつきあいのほとんどは、人間関係の天秤(てんびん)を自分の側に傾かせようとする側と、それをもどそうとする側の、ひそかな政治といっていいような駆け引きと葛藤が隠されていて、なかなかこれがやっかいなのです。

 「いただいたらお返しをする」というのは「借りを返す」という負債返済であって、特に金銭の貸し借りは、のっぴきならない状態に人間を追いこむことがあるのは、日々のニュースをながめていてもわかります。一般的に金銭の貸し借りには利子が発生し、借金が思いがけなく膨らむ危うさは常にあります。また開き直って借りたお金を返さない、あるいは返そうとしないため、破綻(はたん)どころか惨劇となることも少なくありません。

 明治の初めに創作された三遊亭円朝の怪談「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」は、やはり借金を「返せ、返さない」の押し問答が発端となっています。借り主の旗本、深見新左衛門が、貸主で盲目の鍼医(はりい)の宗悦を斬り殺したことで、その血筋の子や縁ある人々が殺戮(さつりく)を重ねる話で、人間関係の天秤がその傾きをもどすどころか、天秤そのものが崩落していくといった凄惨(せいさん)な因果の物語です。

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 金品の返礼や貸し借りの底には、たえず流動する人間関係があります。そんな関係から逃れたいといった願望も、人間の内には秘められているらしく、時々、世の中にうんざりして無人島で暮らしたいと夢想することもないわけではないのですが、そんな時は無関心という虚無に蝕(むしば)まれはじめていることを、ちょっと警戒した方がいいかもしれません。

 人間ひとりでは生きてはいけないのです。世間と交わり、他人を信じたり、疑ったりしながら、天秤ばかりが一方に傾きすぎないようにうまくやっていくしかなく、それは面倒でも喜びもあるはずで、「人間」という関係を生きていく醍醐(だいご)味もそこにあるのかもしれません。=朝日新聞2021年9月6日掲載