「ジャニーさんはOKが出るまで永久にやり直し」あの名曲の生みの親・松本隆70歳に

 作詞家の松本隆が、きょう7月16日、70歳の誕生日を迎えた。松本は慶應義塾大学在学中の1969年、細野晴臣らとバンド「エイプリル・フール」を結成したが(担当はドラムス)、アルバム『APRYL FOOL』を出して解散。このあと、細野のほか大滝詠一、鈴木茂と新たに「はっぴいえんど」(当初のバンド名は「ばれんたいん・ぶるう」)を結成し、翌1970年、1stアルバム『はっぴいえんど』をリリースする。はっぴいえんどで松本は大半の曲を作詞し、その才能を開花させる。1971年のアルバム『風街ろまん』では、東京に生まれ育った彼の原風景であり、妄想の街でもある「風街」をコンセプトに押し出した。そこには、生家を1964年の東京オリンピック開催にともなう道路拡張で失うという松本自身の体験が反映されていた。


70歳になった作詞家・松本隆 ©文藝春秋

内田裕也との「日本語ロック論争」

 はっぴいえんどは、日本のロック・ポップス史において、日本語詞をロックに乗せた先駆的なバンドと位置づけられている。これに関しては、今年3月に亡くなったミュージシャンの内田裕也とのあいだで、いわゆる「日本語ロック論争」を繰り広げたことが知られる。この論争は、現在では「ロック・ポップスにおける日本語詞の是非をめぐるもの」として把握されている。しかし、その実体は、音楽学者の増田聡が指摘するように、70年代初めの当時「ニューロック」「アートロック」と呼ばれた英米ロックをどう位置づけ、どのような形で日本に導入すべきかをめぐる路線闘争というべきものであった(※1)。

 論争の発端となったのは、タウン誌『新宿プレイマップ』1970年10月号の座談会だ。このときはっぴいえんどから出席した大滝詠一は、当時流行していたメッセージ性の強いフォークソングに対し、ロックとはサウンドを重視するものだという点では内田と意見が一致した。ただ、内田がロックにおける普遍性を追及し、そのために便宜的に英語詞を採用すべきと考えていたのに対し、大滝は、日本でいかにロックを土着させるかを出発点としている以上、日本語詞を用いなければならないと主張する。これを受けて内田は、《でもロックが日本で土着した状態というのは具体的にどういう事をキミは指すの? 土着に成功して、ロックが地方を廻わる興行システムになっちゃうという事?》と返した(※2)。この発言からは、内田の懸念が、日本語詞そのものより、ロックが日本に土着する過程で、従来の芸能界的興行システムに組み込まれてしまうことにこそ向けられていたことがうかがえる。


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