虚構のデートを行い、撮影する試みも進めるが……

 彼は虚構の理想的なデートを行い撮影する試みも進めていく。性風俗店では本番行為を行う大義名分として「あくまで男女が各々の意志で瞬時に相思相愛になっただけ」というロジック、いわば建前上の自由恋愛を仮構する場合がある。池田氏はこれを理屈にとどめるのではなく、実際に恋人役の女性と「恋愛ごっこ」を実践していくのだ。

 しかしその目的はセックスには無い。彼は風俗という「セックススタート」の形でしか異性と関わってこられなかったからこそ、むしろ別の形の「関係性を感じたい」と言う。そしてそれを突き詰めた先に愛の正体が分かるかもしれないと考えた。

 愛を表現することは芸術の永遠の課題である。もし愛を直接見えない光だとすれば、池田氏は以下のようにしてそれを可視化してみせた。 

 まず「愛を知らない」という心の漆黒が背景にある。そこに障害・余命・買春という三つの厳然たる現実を頂点とする歪なプリズムを置く。すると、その中で光が様々に屈折・反射し、色とりどりの愛となって観客の目に飛び込んでくるのだ。

 相手が感じていることに関心を払い、自分なりにそれを感じよう、より良い関わりを持とう、という意志が愛ならば、その断片は本作にちりばめられている。観客は以下のようなエピソードから、彼や周囲の人々の言動の中に様々な愛を見出すだろう。

 例えば、昔名古屋の性風俗店で初体験した際のこと。彼はこの体でセックスできるのか、相手にどう思われているか不安で「大丈夫?」と尋ねる。すると返ってきたのは「だって同じ人間じゃん」という言葉だった。この出来事は彼が人生の転換点の一つと捉えるほど心に強く響いたようだ。

 パンフレットには、彼が人に対してとても気を遣う人だったことが記されている。

 映画の共同製作者である真野勝成氏を友人として心から信頼する姿勢も伝わってくる。

 多くの同僚から慕われていたことも、職場からの応援の寄せ書きからうかがえる。彼はそれを「何を応援してんだろうね」などと口では嘲りつつも、玄関の一番よく見えるところに飾っているのだった。

※以下、本作の結末に触れる記述があります。