主人公が愛に最も近づいた瞬間

 そして彼が愛に最も近付いたのが、本作の白眉となるシーンである。自ら仕組んだ虚構のデートの中で相手から告白を受けるのだ。彼は恋愛から看取りまでが「一直線上に並んでる」ような揺るがぬ関係を望み、「あくまで一貫性の中でのもの」を強く欲していた。にもかかわらず、台本に反して告白を断るという選択をしてしまうのだった。

 彼は長い沈黙の末に葛藤を絞り出す。これまでの人生はそれなりに楽しく満足していること。障害はあれども、自力でできることは結構やってきたという自負もあること。その上でこう口にするのだ。

「やっぱり僕だけの話じゃないじゃん 相手あってのことだから そういうの考えると 関係ないっちゃ関係ないのかもしれないけど 関係あるっちゃ関係あるような気がして その部分が未だによく解決できてない みたいなのあるよね」

 真剣に相手の幸せを思えばこそ障害を強く意識してしまう。自分と一緒になることが相手にとって良いと思えない。だから彼は「イエス」と言うことにどうしてもリアリティを感じられなかったのだ。

 彼は理想とする関係を得られなかった。だがそれ故に、死の直前まで映画製作を通じて愛を探し続けることになったのだと思う。閉じた関係の中に完結できなかったからこそ、普遍的な問いと共感を開く優れた芸術を生むことができた。

 彼の愛の問題は、いつか同様に死ぬ私達自身の問題でもある。終盤で急速に痩せ衰えていく彼への没入を通じ、観客の関心は本作の核心、ただ一つ確実に存在していたものに導かれる。それは彼の心だ。果たして彼が愛を「分かった」瞬間はあったのだろうか、と。知る術が無いからこそ、そうあれかしと願わずにはいられない。この祈りもまた、観客から彼への愛である。

 筆者にとっても本作は自分の感情に気付く良いきっかけになった。

 障害や病苦に理由などないが、それらも自分の生の一部として引き受けるしかない。でも時折、ヘルパーが帰って一人になった部屋で無性に寂しくなる。理由なく一緒にいてくれる人は誰もいないのか、と。

 他者は他者であり、そんな都合の良い存在と巡り合うことは今後も一生無いだろう。赤ん坊が駄々をこねるようなものだと頭では分かっている。それでも誰か側に居てほしいと思わずにいられない時がある。池田氏も同じような気持ちを抱いたのだろうか。そう思うと少し孤独が和らぐ気がする。

近年、障害者が身体を語れるようになってきた

 近年は本作だけでなく、石田智哉監督の『へんしんっ!』に代表されるように障害者が自分の体を被写体として活かした映画群や、伊藤亜紗氏による障害者の感覚の美学的視点からの研究が注目されるなど、障害者が身体を語れるようになってきた。

 自分の身体的特徴を、社会や医療の中にだけではなく、一人の人間として人生にどう意味づけているのか。そこには人の数だけ違う語りがあり、時に非常に分かりにくい。そうした複雑で詳細な新しい語りを生み、許容する土壌ができつつあるのは社会の成熟の証だ。無数の制度・文化・認識の豊かな蓄積の勝利と言える。

 無論、健常者と同じことをさせてもらえるという意味での平等は今後も重要であり続ける。しかしそれでもなお残るインペアメントについては、筆者自身も引け目に感じたりどう扱えば良いものかと長い間持て余してきた。それが芸術や学問の領域では問いを生み未知に迫る武器にもなると分かってきたのは大変嬉しい。差異を肯定的に捉える知恵が他の領域にも波及し、障害者の活躍の幅が広がることを願う。

(ダブル手帳)