先日、米山隆一さんにぼこぼこに論破されたひろゆき(西村博之)さんの動画が流れてきて、ああ、ひろゆきさん変わってないなと思いました。

 変わっていないというより、変われていないという部分でしょうか。

25年前『2ちゃんねる』運営をお手伝いした私が感じたこと

 その後も、奇異に思った各媒体が「米山隆一がひろゆきを論破!」とか「論破王のメッキがはがれる西村博之」的な文言を並べて煽っておりました。まあ、叩けるタイミングが来たら叩いてアクセスを稼いでおこうというネット媒体側の気持ちもよく分かります。

 個人的に、ひろゆきさんとの付き合いは1998年の匿名掲示板『2ちゃんねる』運営をお手伝いし一緒に営業用の法人を立ち上げたころからですから、思い返すと四半世紀に渡って、日本のパソコン通信からインターネットに移り変わるネット社会・ネットコミュニティ成長の歴史(黒歴史含む)にそって、彼も私も生きてきたことになります。


©️文藝春秋

 米山隆一さんのひろゆき評は各報道の通りです。基本的に、ひろゆきさんや彼とつるんでいた堀江貴文さんらも同様に「人格批判や罵声でひるんだ相手に対して、回答しづらい社会の中であまり表ざたにするべきではない差異や分断をえぐり出してぶつけ、しどろもどろになった姿を嘲笑する」というダークパターンを使うのが『論破芸』の一端です。

 その『論破芸』の必勝法が、米山隆一さんには通用しなかった、というだけのことです。

 実際には論破しているのではなく、論点をコロコロ変えたり嘘をついたりしてまともに議論せず、相手を煽り続けているだけなのですが、あれが論破なのだと思うような知識のない人や子どもにウケているのは実相じゃないかと感じます。

 また、ひろゆきさんの取り巻きや信者、ひろゆキッズとされるファンたちの人物像も、X(Twitter)やYouTubeなどでのクラスター分析を信じるならば群れる小魚のような人たちで、たくさんやってきては、すぐに去っていく焼き畑農業的な側面があります。草刈りの場となるオンラインサロンやサービス購買に関心を持った人がドーッと集まってきては、特段意味も価値も見いだせなくなった多くの人たちがドーッと去っていくというビジネスモデルです。

 必然的に、常に目新しいこと、刺激的なことが求められるのですが、世の中そこまで激しく移り変わっているわけではなく、人として生きる意味や価値は高齢者も若者もそれほど変容しません。しかし、そういう真実だけど陳腐なことを言い続けていると、飽きられて人が離れてしまいます。

 それゆえに、どんどん社会常識と乖離していったり、属性を分断するような物事を過激に煽ったり、嘘でもいいから珍しいことを言ったり、価値観を揺さぶって煽ったりして人の気持ちを昂らせることで、興味を持ったライトな人たちを惹きつけ続けなければならないのです。

ひろゆきさん界隈の空気が変わったふたつの出来事

 出版業界もネット業界もウェブメディアも、ひろゆきさんに知識は特にないことなどは百も承知だけど人気商売として露出を続けたいひろゆき的なアイコンとそこに結び付けた書籍やサービス、記事などといったマテリアルやプロダクトを売るためには名前だけ借りてでもどしどし世に出して、旬なうちに、焼き畑農業を粛々と続けようとします。

 あくまでビジネスですから、ひろゆきさんがどんな適当なことを言おうがファンとなるクラスタ以外には悪い影響は小さいし、何となればひろゆきさんには名前だけ借りて中身は全部ゴーストが書く本でも表紙にひろゆきさんの顔写真が印刷されれば売れるんだと言う人たちも出ます。