三業地、遊郭、岡場所、赤線、青線、カフェー街といった夜の歓楽街は、江戸・東京の発展に強く関連する。しかし、さまざまな理由から、当時の名残をとどめた建物は年々減少の一途をたどっている。

 日本社会を独自の視点で研究する三浦展氏は、かつて東京のいたるところに存在した花街の歴史を留めようと、実際に43の街を歩き、著書『 花街の引力 』(清談社Publico)を執筆した。ここでは同書の一部を抜粋。大井・大森・品川の歴史を振り返り、東京各地に点在した“特殊慰安施設”の実態を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

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海岸にできた花街

 かつての大井海岸町(現・品川区南大井二、三丁目)は、東は遠く房総の山々、南は多摩川の清流を隔てて富士山、北は筑波山まで見え、水もきれいで、渚には小魚や小海老、蟹が生息し、潮干狩りはいつでもできたので、味噌汁をつくるときは海に行けば間に合うというほどだったという。

 1891年ごろ、古くから潮干狩りの場所として知られた八幡海岸に八幡海水浴場ができた。これは大森の丘の上に「八景園」を創設した久我邦太郎がつくったものである。


「東京湾」初の海水浴場が大森に(出所:「おおた区報Web版」平成29年1月1日号)

 それがきっかけとなり、また今の京急本線が1901年に開通すると交通の便がよくなり、磐井神社の鳥居前に古くからあった茶屋が維新後に料亭となって、大井海岸および隣接する大森海岸の花街としての歴史が始まった。

 また、品川三業地は大井三業地の芸者屋が1932年に東品川三丁目(現・一丁目)の埋立地に集団で移転したものだという。

 大井では料亭「楽楽」「やなぎ」「小町園」「見晴し」などができ、1929年には芸者置屋が42軒、芸者数は200人はいたという。

 現在はマンションが並ぶ風景になってしまったが、京急本線の西側の大井海岸町には、そこもかなりマンションなどに変わってしまったとはいえ、なんとか花街の雰囲気が残っている。

 大井海岸町にある「松乃鮨」は1910年に芝神明で屋台の寿司店としてスタート。幼少のころから寿司店を手伝っていた2代目は料亭が立ち並ぶ神楽坂に修業に出て1936年、2代目は大森海岸に出店。当時の大森海岸は海の苔りの名産地とともにコハダ、赤貝、ハマグリ、羽田沖の穴子など素晴らしい寿司ネタが目の前の海で獲れる、まさに江戸前寿司の本場だった。

 2代目は成功し、数寄屋造2階建ての店を建て3代目が引き継いだあと、1989年に大火で全焼。現在の店は3代目が自身の実家を改装し、燃え残った看板を掲げて店を再スタートさせたものだという(松乃鮨ホームページより)。