17歳、5歳、3歳、養女と知人の子を殺し…犯罪史上に残る“異様さ”「京都帝大農学部前4人殺し」 から続く

 47歳の女性・平松小笛と、17歳、5歳、3歳になる彼女の養女と知人の子の遺体が発見された1926年の「小笛事件」。逮捕されたのは、交際相手だった廣川條太郎という20代の会社員だった――。

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 廣川の経歴は京都日出と、京都日日にある。より詳しい京都日出は、京都帝大で調べた結果として次のように書いた。

〈 原籍・新潟県北魚沼郡小千谷町69番地、廣川利兵衛の長男として明治32年7月4日生まれの当年(数え)28歳。大正10(1921)年、小樽高商(現・小樽商大)を卒業して直ちに京都帝大経済学部選科に入学し、同13(1924)年、選科を修了してから神戸で就職したものである。〉

 対して小笛の経歴は、7月2日付京都日出朝刊に見られる。

〈 四国の愛媛生まれで22歳のとき岡山に来て、都窪郡庄村(現・倉敷市)、平松慎一と結婚した。岡山県は花筵(はなむしろ=花見のときなどに敷くゴザ)の産地で、四国から多くの年ごろの女が出稼ぎに来ているが、とかくの定評がある。小笛も定評通りの女だったらしい。結婚後、夫婦で朝鮮に渡ったが夫に死なれて夫の郷里の岡山に帰り、大正10(1921)年1月、京都へ来て出町柳で下宿屋を開業した。千歳は(朝鮮の)仁川で両親を失った孤児を引き取ってわが子としたらしい。また八瀬に一家を構えている実子、森田友一は、平松慎一と結婚する前になれ合った男との間にできた子で、友一が生まれるとすぐ、その男と乳飲み子の友一を捨てて走ったという。〉

「小笛の自殺説」「犯人は廣川と断定」入り乱れる報道の中で…

 事件はその後「廣川に對(対)する確證(証)未だ擧(挙)らず」(7月2日付京都日出朝刊)、「九分通り廣川の所為 刑事課長の言明」(同日付大朝朝刊京都滋賀版)、「俄然捜査方針一轉(転) 遂に迷宮に入つ(っ)た」(7月2日発行3日付京都日出夕刊)などと続報が伝えられた。同じ2日発行3日付の京都日日夕刊には初めて平松小笛の顔写真が掲載された。

 廣川の父や神戸信託の上司らは、普段の性格や事件後の態度などから「廣川は無実」との声を上げた。

「小笛の自殺説」(7月2日発行3日付大朝夕刊)、「犯人は廣川と断定」(7月4日付大朝朝刊)、「有力になつた小笛の自殺説」(同日付大毎朝刊)など、報道が入り乱れる中で7月4日午後、廣川に対する拘引状が執行され、5日、身柄が京都刑務所上京区支所へ収容された。


廣川の身柄収容にやじ馬が集まった(京都日日)

 5日発行6日付京都日日夕刊は2面トップで「裁判所の広場に集まった廣川の見物人」の説明付きの写真を掲載。こう報じた。

〈 新聞記事によって知った近所の者はもとより、遠く自転車を駆って廣川を見んものと、5日早暁から下鴨署前は数百の群衆で埋まり、車両の交通にさえ支障をきたすほどだった。やがて午後1時20分になると、府刑事課の護送自動車が署の車寄せに横づけされるや、ソリャコソと南北から駆け付ける見物人いよいよ数を増し、おそらく下鴨署設置以来初めての混雑ぶりを見せ、今か今かと廣川の姿が北横門に現れるのを待ち受けた。かくて廣川は2名の警官が厳重な監視の下に、和服姿に編み笠をかぶらせ、各新聞の写真班を避けて洋傘を着せかけ、車に乗り込ませて1時40分、上京支所表門から収容した。〉