元日の能登半島地震から7月1日で半年を迎えた。震源から100キロ以上離れた高岡市や射水市でも液状化の被害が大きかった地域では、今も道路や家に傷痕が残り、住民は先を見通せずにいる。(松村裕子)

高岡の菅原さん 「人生設計 一変」

娘・孫と住めず ローン残る 「人生設計が変わった」。高岡市横田町の菅原光雄さん(71)は崖側に傾き、今も亀裂が広がる自宅を目につぶやいた。

 元日は石川県に住む一人娘(46)と中学生の孫(15)が帰省。孫の高校進学を機に娘親子と自宅で同居しようと、話が弾んでいた。娘がいれば2年前に脳梗塞で半身不随になった妻(66)も心強いし、3世代でにぎやかになる。

 楽しいわが家を思い描いて「飯、食べるぞ。一杯飲もうかな」と立ち上がった、その時だった。震度5強の揺れが床を持ち上げ、崖側に斜めに下がるのが分かった。外へ出たら道路のマンホールが1メートル浮き上がっていた。「なんじゃこりゃ」。予想した未来とは違う怒濤(どとう)の日々が始まった。

 液状化の被害が出た横田町の中でも、菅原さん宅を含む崖沿いの4戸は崖側に傾いて住むのが難しくなった。「気持ち悪くていられない。余震があったらどうなるか分からない」。半月後、市営住宅に引っ越した。

 試算では基礎から直すと1500万円ほどかかる。年金暮らしで25年前に建てた自宅はローンが残る。娘に借金は残せない。「解体しかない」と公費解体を申し込んだ。ついのすみかとして建てた家だけに「できれば住み続けたい。『すぐにも解体して』との気持ちにはなれない」と感情が交差する。県が打ち出した最大766万円の復旧補助に思いは揺れる。「それでも足りない。もっと支援を増やしてほしい」と切望する。

 「半年はあっという間だった」。手続きで毎日のように市役所や法務局に通い、弁護士らに相談に行った。半壊の罹災(りさい)証明に「納得いかない」と再調査を求め、中規模半壊と判定を受けた。自宅でなくても娘や孫と一緒に住みたいと、賃貸の中古住宅を見て回った。だが思うような物件は見つからない。市営住宅は狭く、娘らは市内で別居生活になりそうだ。

 ドアに貼られた危険を示す赤紙は色あせ、時の経過を物語る。家財道具は大きなたんす二つと仏壇、神棚以外は運び出した。自宅前の道路は仮舗装された。事後処理や復旧は一見すると進んだが、気持ちの整理は何も進んでいない。

射水の浜谷さん 「後始末終わらない」

高齢者宅も自宅2階も手付かず 液状化の被害が激しかった射水市本町の住宅地。築90年以上の浜谷明人(あきひと)さん(67)宅も玄関が5センチ下がり、砂が出て居間と仏間は3〜5度傾いた。

 自治会長や民生委員を務める地元の世話役。海に近く津波の恐れがあったため、元日は家族を新湊高校に避難させ、自分は公民館の鍵を開けて遠くへ逃げられない高齢者を3階に避難させた。翌日から母と妻を市内の長女のアパートに避難させ、噴き出した砂の片付け、災害ごみの収集、高齢者の安否確認に奔走した。「1カ月はあっという間」に過ぎた。

 「通るだけで気持ち悪い。ちょっとでも平らにしたい」。1月末、やっとわが家を直そうと考え、2月に業者に依頼した。5月後半にようやく修理でき、「ちょっと落ち着いた」。

 高齢者の多い地域で、自宅改修に手を付けられない人が多い。「大きな余震があったらどうするのか」。6月の余震は自分もびっくりしたくらいで「怖くて震えていた人がいた。心の病が出てこないか心配」と話す。凖半壊の自宅も2階は手付かずで床が落ち、壁がゆがんだまま。わが家も地域も悩みは尽きない。半年たっても地震の後始末は「全然終わらん。肩にひっかかっとる気がする」。