◇コラム「田所龍一の岡田監督『アレやコレ』」

 5月7日の甲子園球場で「事件」が起こった。試合前の練習で一塁側阪神ベンチが記者たちに開放され、岡田監督とトラ番記者たちが1時間以上も談笑したのだ。そして翌8日も―。2019年、コロナ禍の影響で各球場のベンチが記者立ち入禁止となって以来、実に4シーズンぶり。岡田監督が球団に「解放してあげれば」と具申したという。トラ番記者の中には初めての経験で「監督とこんなにざっくばらんに話せるなんて」と感激でする者も。

 この雑談が記者にとって何よりの勉強になる。もちろん人によってベンチに来ない監督もいる。筆者がトラ番時代の1985年、吉田監督は「わて、話しするのん下手でんねん」とすぐにグラウンドに飛び出していった。その代わりを一枝ヘッドコーチが務めた。逆に村山監督は話が大好き。ある年の父の日のこと―。

 「今朝、仏壇を掃除していたら、死んだ親父が俺のためにこっそりと貯金してくれていた預金通帳が出てきてな。父親とはありがたいもんや」と記事ネタまで用意してくれていた。

 星野監督は球場だけでなく、遠征先のホテルで午前8時から記者たちと「お茶会」を開いた。話題は一般新聞を広げて国際情勢や経済、政治の話まで。ときおり「○○君はこの件についてどう思う」と振られるから、記者たちも事前に勉強して臨んだという。

 監督のベンチ取材で忘れてはいけない人がいた。1999年、阪神の監督に就任した野村監督である。ノムさんはベンチに座り込むや、練習が終わるまでズーっと記者たちと話し込んだ。野球の話だけではなく「水虫が治らんのや」とかサッチー夫人へのボヤキまで。スポーツ新聞の企画で監督の『語録』や『談話集』が始まったのは野村監督がきっかけである。だが、その企画も6月に突然、縮小した。野村監督がベンチに来なくなったからだ。

 その日もいつものようにトラ番記者たちと談笑していた。話題がちっとも活躍しない外国人選手のM・ジョンソン、M・ブロワーズの話に。もうこの1年でクビにしようと思っていたのだろう野村監督はボロクソに批判したという。翌日の紙面である記者がこう書いた。「記者と話す時間があるなら、もう少し外国人選手と話した方がいいのでは」。正論である。だが、野村監督は気に入らなかった。『沈思黙考』という言葉を最後に試合前のベンチには来なくなったのである。

 5月7、8日の広島戦に連敗した岡田阪神はしばらく遠征に出る。次の甲子園は17日からのヤクルト戦。それまでに調子が上がらないと…。岡田監督も『沈思黙考』するかもしれない。

 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。