映画『ドライブ・マイ・カー』で第74回カンヌ国際映画祭の日本映画初となる脚本賞ほか4冠、第94回アカデミー賞では国際長編映画賞に輝くなどの快挙を成し遂げた濱口竜介監督。次なるプロジェクトに熱視線が注がれる中、彼が選んだのは盟友・石橋英子との音楽×映像のコラボレーションだった。石橋のライブパフォーマンス用の映像制作を志した濱口監督はサイレント映像『GIFT』と、そこから派生した長編映画『悪は存在しない』の2本を創り上げる。後者は第80回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞し、濱口監督は世界3大映画祭を制覇することとなった。本稿では「心のネタ帳」をテーマに、彼の創作脳をひも解いていく。
■日常的にある「心のネタ帳」
――『悪は存在しない』というタイトルが秀逸でした。こちらはどのタイミングで決まったのでしょう。
濱口:まず、脚本執筆に先駆けてシナリオハンティング(シナリオ執筆のための取材)を行いました。今回撮影した地域は、石橋さんが使われているスタジオの周辺になります。劇中に出てくるような林や水辺が実際に広がっていて、季節が冬ということもあり、人の気配がない自然だけの空間に身を置いていたときに「この自然の中に悪は存在しない」と感じました。そこからプロジェクトタイトルを『悪は存在しない』にして、それが結果的に残った形です。
――ヴェネツィア国際映画祭の会見の場で「自然から見たら悪も善もない」とお話しされていましたね。また、作品を拝見した際に、人間間でも衝突は起こるけれどもそこに悪意はないのかも、と感じました。みんながコロナで右往左往しているなかでの摩擦といいますか。
濱口:確かに、明確な悪意をもって何かをしている人というのは本作の中にはあまりいないかもしれませんね。
――コロナの描写も含めて、本作はものすごく“今”を描いていますよね。運転中にナビ代わりに使っていたスマホにマッチングアプリの通知がポップアップで出て同乗者に見られてしまうシーンなど、“あるある”だなと感じました。シナハンの過程でグランピング施設の杜撰(ずさん)な敷設計画を知った、というお話も伺いましたが、本作は濱口監督が見聞きした内容が物語に変換されていった割合が強いのでしょうか。
濱口:そうですね。元々はリサーチして得たものが中心にあって、そこに別のタイミングで知った要素が加わって有機的に変化していった感覚です。マッチングアプリについては人から聞いた話がネタ元で、実際の話の方がもっと面白いものでした(笑)。確かにこれは気まずかったり、恥ずかしかったりするだろうなと思い、心のネタ帳に書き込んでいたものになります。
――劇中のセリフで、そば屋の店主に「おいしかったです。温まりました」と伝えたら「それは味じゃないですよね」と返されるやり取りも、なんて鋭利なんだろうと震えました(笑)。同時に、日常にありそうな言葉だとも感じたのですが、日常的に「心のネタ帳」に書き込まれているのですね。
濱口:ただ、やっぱり現実だけだと物語/ドラマにならないという問題もありますし、現実とドラマが似すぎていたら、現実に生活する人にとって不都合となる、というまた別の問題もあります。現実とつながりすぎていてもいけないから、どこかで想像力の度合いを増していかないといけません。ある程度話の構造が見えてきて、キャラクターの動き方が予測できるようになると「この人物の行動原理はこうじゃないか。こういうことはするけど、これはしないだろう」と想像しながら書くようになるわけです。
例えば、ある一言のセリフがあった後の“受け”の一言として「この状況でこのキャラクターはこういうことは言うけど、これは言わない」といったように、ある程度具体的な状況を想定して、有限な選択肢から最も起こりそうで、かつ面白い一つを選んで、その次も同じように想像して、面白くならなかったら一つ前に戻ってもう一回…ということをやっていくと、先ほど挙げていただいた「それは味じゃないですよね」のように、次第にそのキャラクターが言いそうなフレーズが出てくることがあります。
――そこで生活している人々のリアルな姿を観察しているような感覚にもなりつつ、冒頭から「銃声が聞こえる」という物語構造としての仕掛けも施されているのが印象的です。先の会見の中で「ラストシーンは気付いたら書いていた」とも話されていましたが、濱口監督の創作においてロジカルに組み立てていく部分と無意識的なものは一体なのでしょうか。
濱口:そうですね。一人でやっている将棋のような感覚でしょうか。さまざまな立場に立ちながら「この一手かな、それともこうかな」と取捨選択をして指していくのですが、時には場面自体に動かされて指していくような局面もあります。そういったときは後から振り返ってみても「なぜこう書いたのか」が分からない、けれど一つ筋の通ったものになります。
――漠然とした質問を続けてしてしまい、申し訳ございません。というのも本作を拝見した際に、冒頭の木々を見上げながら動いていく長回しで「自分は今、すごく映画を見ている」という感覚になってしまいまして。それは果たしてどこから来るのかと思い、過程を伺わせていただきました。
濱口:いえいえ。ちなみに、ほかに「映画を見たな」と思う映画はありますか?
――それが、パッと思いつかないんです。ひょっとしたら、この物語の中に流れる時間に自分を合わせようとする行為にそう感じたのかもしれません。映像的な部分でいうと、だるまさんがころんだをしている子どもたちをストップモーション的に見つめるシーンや、その一連でカメラが揺れることで「これは車の目線なんだ」と気付いて驚かされるなどなど、のめり込んで見てしまう“引力”も、その感覚に起因しているように思います。
濱口:なるほど。細かく見てくださり、ありがとうございます。
――こちらこそです。ちなみに今回の撮影ではショットリストのようなものを事前に用意されたのか、思い付きで入れてみるパターンもあったのか、そのあたりはいかがですか?
■濱口監督が思う“心に残る映画”とは?
濱口:思い付きでやったものは少なかったように思います。基本的にはシナハンをして「ここでこういうショットが撮れるな」をある程度判断して、適切に準備をすれば力強い映像は撮れるはずと想定はしていました。
元々、この企画は石橋さんのライブパフォーマンスの際に流すものとして始動したため、基本的にはセリフのない状態で力強いものを撮っておかなければならないと考えていました。そのため、それを達成できるという目算があるものがシナリオに書き込まれていきました。先ほど挙げていただいたようなシーンですと「こういう道で撮ります」は撮影監督にまず共有し、スタッフ全体にもあらかじめ「こういう風に撮るので、準備をお願いします」とは伝えました。
――となると、シナハンないしロケハンの最中でインスピレーションを受けて生まれた撮り方も多いわけですね。
濱口:そうですね。それなりに即興的な思い付きはありましたが、その場で本当に思い付くというよりもここでも結局、心のネタ帳が関わってくるんです(笑)。「ここだったら、あのアイデアが使えるかも」という心の中のショットネタ帳をめくって掘り出して、スタッフに共有してカメラを構えてもらったシーンもあります。
――濱口監督のネタ帳には、物語的な部分やビジュアル的なものなどさまざまな分野があるのですね。ちなみに本作のサウンドデザインはいかがですか? 環境音が絶妙でしたが。
濱口:あの時期の撮影エリアはマイナス10℃くらいで、まずもって人間がほとんど活動していないんです。そのほかの生き物も恐らく活動を低下させているでしょうから、基本的にはめちゃくちゃ静かな環境でした。録音・整音の松野泉さんとも「全然音がしないですね」という話をしたことを覚えています。とはいえ人が動けば枯れ枝を踏むような音は録れますが、完全に静かな状態だと映画的な緊張感は保たれません。そこで松野さんと共に「ここに鳥の声を入れましょう」などなど、緊張感が途切れそうなところで環境音を調整したり増やしてリズムを付けていきました。
――『ドライブ・マイ・カー』もそうですが、『悪は存在しない』の車の走行音がとても心地よかったです。何かこだわりはあるのでしょうか。
濱口:ありがとうございます。そこまでのこだわりはないのですが、音周り全体の意識として「どのあたりが耳に気持ちいいか」という判断はそれなりに行っていて、その上で「ここの音域を厚くして、ここの音域は絞る」といったことはお願いしています。ただ、録音部が元々作ってくださる音がしっくりくることも多いです。
――『悪は存在しない』では、劇伴がフェードではなくぶつりとカットアウトされる演出をされていますよね。気持ち悪さが気持ちいいといいますか、見る側がそこに何らかの意味を感じる効果が絶妙でした。
濱口:今回のように音をぶつっと切る演出はさまざまな映画で行われてはいますが、今回は先ほどお話しした環境音を聞かせることとの合わせ技です。石橋さんの音楽は本当に美しくて使いたい気持ちは山々だけれど、音楽と映画があまりに同調しすぎると、映画と音楽両方にとって、というか観客の体験としてよくないだろうと感じていました。音楽にはメロディーがあり、回帰するリズムが必然的に聞く人の期待を生みます。となると、劇伴が流れている状態では人は音楽を聞く耳になっていく。そこで突然音楽が断ち切られると、環境音を生々しいものとして捉える効果がある気がしていて、今回実践してみました。そしてまた、ブツ切りした瞬間に音楽に向けられて高まった観客の感性が環境音に対して向けられるのではないかと。そういう狙いをもって、あのような形を取りました。
――濱口監督は先日、Letterboxdのインタビューで人生の4本に『ミツバチのささやき』『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』『風と共に去りぬ』『東京物語』を挙げていらっしゃいました。観客として、作品選びの際に重視するポイントはございますか?
濱口:面白そうかどうか、でしょうか(笑)。ただ、見る側として前もって意気込んでいくというより、そんなに前情報なく、映画館の良い椅子に座って「さぁ、どんなものを見せてくれるんですか」と思って気付いたらのめり込んでしまったものの方が、心に残るようには思います。
改めて思うのは、映画というものは本当に1本1本がまちまちだということです。同じようなショットや画や音の構成をしていたとしても、ほかの映画ではうまくいっていないけどこの映画では成功している――といったことは多々ありますよね。それがどの段階でそうなるのかは、究極的には分かりません。ただ、自分が本当に良いなと思ったものに関しては、心のネタ帳に書き込んで「どうやったら同じような、もしくはちょっと違ったとしても自分の作品にとって良い効果が生まれるか」を考えていきます。
――本日のインタビューは「心のネタ帳」に尽きますね。ちなみにそのネタ帳は、今現在も更新中なのでしょうか。
濱口:はい(笑)。映画を見ていても更新されますし、いまだに映画を撮るとその都度ものの見方が変わっていくところがあります。同じものを見ていても今までにはなかった視点が生まれてくるため、ネタ帳は随時更新し続けていますね。
(取材・文:SYO 写真:上野留加)
映画『悪は存在しない』は全国公開中。
濱口竜介監督の“創作脳”をひも解く 物語やショットが生まれるのは「心のネタ帳」から
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