「エンターテイメント」という言葉を使うなら室礼や器など、日本料理はすべてが「悦楽」です

本湖月 穴見秀生さん

食い倒れの街・大阪ミナミを代表する法善寺横丁で、「本湖月」の暖簾を守り続ける穴見秀生さん。大阪を代表する日本料理の匠としてミシュラン二ツ星、食べログ大阪1位、世界最高峰のレストランを選ぶラ・リストにも名を連ねる。大阪・船場の贅と伝統、様式美を守り続ける穴見さんは、日本料理が持つエンターテイメント性の伝道師でもある。

パリで若い頃に和食に携わった経験が、穴見秀生という日本料理人を作ったんですか?

それまで意識していなかった「日本料理」を、パリで意識し始めました。JALの機内食をパリで作ってみないかという話が飛び込んできたのは、1968年、僕が19歳の時です。日本料理の世界に入って3年。将来に不安を抱いている時期でもありました。半世紀前ですから、先輩の中には、昼間の休憩時間になると高下駄を履いてパチンコ通い、土日は麻雀、競馬に夢中という人が少なくなかったんです。先達のそんな姿を見ていたら、「僕の5年先、年先もあんなふうなのだろうか」と悲観的になっていたんですよ。

「そんなんやったら料理はやめたほうがええなあ……」。それでパリ行を決めたんです。契約期間は3年、給料もけっこういただけるし、旅費や部屋代も負担してくださるとのこと。言葉もできないのに「広い世界を見てみよう」と、怖いもの知らず。

横浜から船に乗ってソ連のナホトカに行き、列車や飛行機を乗り継いでパリに向かうルートを選びました。

3年の間、機内食に取り組みましたが、各国の首脳が集うJAL主催のパーティでも料理を作りましたし、天皇陛下もおみえになりました。

僕がキッチンで魚をおろしたり、ダイコンのかつら剥きをしたりすると、フランスのシェフたちが僕を囲んで、「まるでマジックだ」などと感心する。外国人のシェフで、和食の技を知る人なんかほとんどいない時代でしたからね。それで、「日本って何?」「日本料理って何?」と意識するようになりました。僕はパリで、自分が日本料理の何も知らないことに気づいたんです。

内蒔絵が美しい塗の器でいただくお椀
さりげなく供される季節の汁物は、出汁のひき方から盛り付け、味や香りなど料理人の腕の見せどころ。夏のお椀はハモ、11月になると解禁になったばかりのカニが詰まったカニしんじょうが。撮影時の器は、繊細な青海波の内蒔絵も見事な蓋付き汁椀。

フランスで調理の技を認められたのに、なぜ大阪に帰ってきたんですか?

日本を発つ前は、「日本料理からフランス料理に転向してもいい」と思っていました。フランス料理のシェフから、「自分の店で働いてくれないか」と声をかけられたこともあります。でも、実は僕は「和食」しか知らない。自分には「日本料理」の技も見識もないことに気づいてしまった。パリに残っても、これ以上の成長がないと思って帰国しました。「和食」と「日本料理」は違うと思います。「和食」はてんぷら、そば、寿司、すき焼きなど日常の食事で、特別な室礼も器も必要としない。でも、僕の言う「日本料理」は、季節の移ろいや伝統を踏まえた空間でいただく、非日常の食事。お客さまも、ハレの日のお召し物で、お迎えするこちらも緊張感をもっておもてなしします。

パリに残るという選択もありましたが、日本で当たり前にやってきたことを、海外の料理人に「知らない」という理由で褒められても、進歩がない。だから、帰国したら「日本で一番」といわれる日本料理店で修業をしよう。もっと高みをめざそうと決心して、「吉兆」に入りました。

そこはまったく違う世界でした。「志野の長皿、織部の筒向付、焼締めの五寸皿を持ってこい」などと言われても、全然わからないから身動きがとれない。パリでは包丁が使えて、煮たり焼いたりできれば「素晴らしい」と褒められたのに、吉兆では次元が違う。日本料理の世界が、いかに奥の深いものなのか思い知りました。

それから休みの日には、茶道具店に行ったり美術館に行ったり。ことに器に魅了され、焼き物全集なども買って勉強しまくりました。

季節の山海の幸を取り合わせた八寸
撮影日は七夕だったため、涼しげな笹竹づくしの八寸。8月には鮮やかに朱いホオズキの中にとりどりの酒肴が。秋になると、イクラ黄味酢おろしや銀杏、シメジと菊菜の白和えなど、四季折々の山海の幸がお目見えする。写真の長皿は、魯山人の糸巻きの皿。

「日本料理」は「和食」とは違うんですか?そこに「エンターテイメント」はありますか?

日本料理のもてなしには、歳時記に寄せる決まりごとがあり、雛の節句、端午、七夕、重陽などの五節句には、食材や料理法はもちろん、座敷の室礼や生け花、道具などもその季節を意識したものを、心を込めて用意する。たとえば、七夕であれば、牽牛(彦星)に合わせて牛に見立てた器を使ったり、織姫が使う織り機の杼(ひい)の形の器を、笹の葉と竹と氷に盛り付けた八寸に添えたり。お客さまから問われた時に物語が始まる。「あの器、素敵やったわ」と言われても、それを使うのは1年のほんのわずかな期間。毎月道具も器も変えて、季節の変化を表現しているのは、世界を見回しても日本料理だけでしょう。

日本料理の世界で深い物語と贅を感じてほしい。それが、僕ら料理人のメッセージですし、日本料理ならではのエンターテイメントです。

夏の盛りにはお椀や折敷の上にさっと露を打つ。今のように冷房などなかった時代には、入口に氷柱を置いて、遠来の客を「涼」でお迎えする。わざと白木の折敷を使い、何時間か冷水につけておき、その折敷の上に料理を置いて涼感を表現する。

時代やライフスタイルは変わっても、「本湖月」のおもてなしの原点は変わりません。空調があるのだから、そんなものは必要がないと思う人もいるかもしれませんが、「必要」でないものを全部取り払ってしまったら、そこに文化はなくなるでしょう。「素敵」は「無駄」の中に隠れていたりするものなのです。

「本湖月」をやっている限り、心から楽しんでいただける「非日常」の場をご用意したい。お客さまが「非日常」を意識して素敵なお召し物でお見えになると、僕も嬉しくなります。何でも「カジュアル」が好まれる時代ですが、暮らしの中にチャンネルは必要です。そのためには労はいといませんし、お褒めの言葉もほしい。そのためだけに料理人をやっているわけではないけれど、お褒めの言葉は最高のご褒美でしょう。

数時間、水に浸け置かれた折敷で涼を届ける
茶懐石ではこの折敷に飯、汁、向付を置いて最初に出す。穴見さんは夏の折敷を数時間水に浸け、「涼」でお客さまをもてなす。「箸置きひとつ、グラスひとつから始めても、素敵な器で料理ができるようになる。夢を捨てないで」と穴見さんは言う。

「日本料理をやってきてよかったなぁ」と思われるのはどんな時ですか?

料理人は、お客さまのお褒めの言葉が嬉しい。お客さまがお椀の蓋をとった瞬間に玉手箱を開けたような表情をされる。そのあと満足げに椀を味わっていらっしゃる表情を見るのも料理人の密かな至福の瞬間です。

実は今から15年ほど前、「本湖月」は火事で焼失しました。独立して年、55歳の時で、僕はその火事ですべてを失いました。器を集めるのに1億円ほど費やしたと思います。それがゼロになった。立ち直れないと思った僕を救ってくれたのは、お客さまの支援でした。「器の足しに」と火事見舞いをくださる方もいた。

そんな折、1通の手紙をいただきました。いつも姉妹でいらっしゃるお姉さまからの手紙でした。

「妹の体が弱って、余命は長くありません。でもどうしても穴見さんのお料理をいただきたいと言っています。なんとかお店を再開して、妹の願いを叶えていただけませんか」「本湖月」という場を通して、私の想いは伝わっていた︱︱。そう思うとパワーが湧いてきました。どうしても再建しなくてはと思いました。再開後、2度ほど来ていただくことができましたが、その後、残念なことに妹さんは亡くなられました。

僕はいつも「日本料理を続けてきてよかった」と思います。来年70歳になりますが、お客さまのお陰で、まだもう少し頑張れると思います。

Hideo Anami
1949年、福岡生まれ。大阪の料理店で3年間修業した後、渡仏。パリでは3年間、JALの機内食を作る仕事に就いた。帰国後、名店「吉兆」へ。ここで日本料理の奥深さに目覚めると、古美術や陶磁器への知識を深める。29歳で「湖月」の料理長に。45歳の時に同店を買い取り、屋号を「本湖月」として独立した『。ミシュランガイド京都・大阪2010』で二ツ星獲得。

HONKOGETSU
本湖月
大阪市中央区道頓堀1-7-11 1-7-11
06-6211-0201

民輪めぐみ=インタビュー 上村久留美=構成 上仲 正寿=撮影

本記事は雑誌料理王国2018年9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2018年9月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。