【五輪に愛され続けた男・野村忠宏1】(後編)

 3歳で初めて豊徳館で柔道に触れた忠宏は、それからおよそ40年が経過した今、「祖父にも父にも、試合に勝て、と言われた記憶は一度もありませんでしたね」と、笑って振り返る。祖父は、自分と兄の熱烈なファンのように、どんな小さな試合でも、時には観客が立ち入れないような場所にまでビデオを片手に接近しては、ただ「頑張れ」と応援し続けてくれた。勝ってほめられ、負ければ叱られる。そうした柔道ファミリーではなかったのが興味深い。

 同年齢の子どもたちに比べて明らかに小柄だったため、小学生の頃はとにかく母・八詠子に「たくさん食べなさい」と言われた。

 「食事を終えると、母や祖母が、忠宏、きょうは本当にたくさん食べて偉かったねぇ、と自分をほめまくる。そうすると父親が、おー、忠宏はいいねぇ、飯をいっぱい食っただけでそんなにほめられるんか、と笑っていました」

 教育も柔道一筋ではなかった。むしろ、普通の子どもたちより多く、塾やスポーツを積極的に習い、柔道のほか、学習塾にも週6回通い、書道、スイミングスクール、地元の少年団で野球、サッカーも楽しむ。両親は一つでも多く、柔道以外の選択肢を提供しようとしていたかのように映る。いつか、厳しい戦いの日々がやってくるのを予感していたからだろうか。=敬称略=

▽野村忠宏(のむら・ただひろ)1974年12月10日、奈良県広陵町出身。祖父・彦忠は柔道場「豊徳館」館長、父・基次は天理高校柔道部元監督、叔父は72年ミュンヘン五輪金メダリストの豊和という柔道一家に育った。3歳から柔道を始め、天理中−天理高を経て天理大入学。4年時の96年に全日本選抜体重別選手権に優勝し、アトランタ五輪出場権を得て、初の五輪で金メダルを獲得。シドニー、アテネも制し、全競技を通じてもアジア人初となる3連覇を達成した。アテネの金は日本の夏季五輪通算100個目の節目でもあった。その後は度重なるケガに苦しみ、2008年北京五輪出場は逃す。15年8月、全日本実業個人選手権を最後に、40歳で現役を引退した。ミキハウス所属。