太平洋戦争最末期の昭和20年7月、当時の青森県知事は、空襲を恐れて都市部から農漁村に疎開する者が増えたことを受け、これでは空襲時に消火に当たる者がいなくなる、28日までに元の家に戻らなければ食糧や物資の配給を停める、などと言った趣旨の発言を行った。

それを聞いて多くの市民が疎開先から帰宅した。その28日の夜に青森市は米軍機の空襲を受け、1000人を超える犠牲者を出した。人間の生命よりも国の防衛が優先されることと、食糧配給により生殺与奪を握られているという点で、今の北朝鮮を彷彿とさせるエピソードだ。

実際、北朝鮮国民は1980年代まで、日々の食糧、生活必需品から住宅に至るまで、ほとんどの物を国から受け取るシステムに依存して暮らしてきた。そんなシステムは、1990年代後半の大飢饉「苦難の行軍」を前後して崩壊。食糧の調達は国に頼らずとも、自力で稼ぎ出した現金で市場で購入する形へと変わっていった。

北朝鮮は今になって、過去のシステムに似通った仕組みを取り戻そうとしている。それが、国家食糧販売所の開設だ。市場での穀物の販売を禁じ、食糧販売所での販売に一本化し、価格の安定を含めた食糧流通の主導権を国の手に取り戻そうとする野心的な計画だった。ところが、各地域の食糧販売所が開店休業状態になっていると、復数のデイリーNK内部情報筋が伝えてきた。

いずれの販売所も毎日オープンしており、従業員も出勤しているものの、売り物である穀物が底をついてしまったのだ。首都・平壌や平安北道(ピョンアンブクト)の新義州(シニジュ)などの大都市、両江道(リャンガンド)恵山(ヘサン)など貿易や商業の拠点都市、地方の小都市などいずれの状況も似たりよったりだという。

「モノがあるところでも、多くてコメ10袋程度が売り物のすべてだ」(情報筋)

平壌の食糧販売所は全国で最も販売実績が低調で、運営を停止してしまったと現地の情報筋は伝えている。これは地方とは異なり、市民の多くが力のある機関、国営の大企業に勤めており、曲がりなりにもそこから配給が得られるため、販売所を利用する理由が少なくないという事情がある。

当局は全国の国家食糧販売所を通じて、5日から7日分の穀物を、市場価格より安く有償配給したが、量が少ない上に、極貧が故にそれすらも買えないという市民もいた。

失脚した可能性が取り沙汰されていた李炳哲(リ・ビョンチョル)党中央軍事委員会副委員長が中国から取り寄せたコメの一部が平壌に供給され、残り8割は「非常米」として備蓄されたと、高位情報筋が証言している。防疫指針を破り、独断でコメを取り寄せたことで更迭されたとの説明だ。

一方で北朝鮮当局は、国際社会から食糧支援を得られた場合、国家食糧販売所を通じて有償配給する計画を立てているとのことだ。購入に必要なチケットを買い集めて大量にコメを買い占め、市場で販売することで差額を儲けようとするトンジュ(金主、新興富裕層)も現れたと言われている。そんな中でこのような形で販売を行っても、金正恩総書記の実績としてプロパガンダはできても、食糧難に喘ぐ国民の生活の助けにはならないだろう。

市場に手を突っ込んで思いのままに操ろうと企む北朝鮮当局は、市場経済化がもはや国の力では押し戻せないほど進展している現実を受け止めるべきだろう。