韓国で最もよく知られている北朝鮮の村の名前と言えば、阿吾地(アオジ)だろう。今では咸鏡北道(ハムギョンブクト)慶興(キョンフン)郡の中の、龍淵(リョンヨン)労働者区、鶴松(ハクソン)労働者区という地名に変わっているが、そこにある6.13炭鉱と梧鳳(オボン)炭鉱は、韓国で阿吾地炭鉱と呼ばれ、政治犯収容所の代名詞となっている。

実のところこの炭鉱、正式な収容所ではないのだが、実質的にはフェンスのない収容所と言っても過言ではない。朝鮮戦争時に韓国軍として参戦して北朝鮮の捕虜となった「国軍捕虜」が多数送り込まれ、強制労働に苦しめられてきたのだ。

今まで脱北に成功した国軍捕虜は80人いる。彼らとその家族の証言で、阿吾地で何が起きていたのか、徐々に明らかになりつつある。韓国紙・東亜日報記者で、脱北者出身のチュ・ソンハ氏が、脱出に成功した国軍捕虜や地域出身の脱北者の証言を元に、炭鉱で何が起きていたかを伝えている。

祖父が日本の明治大学出身で、曽祖父が地主で、朝鮮戦争前に処刑された「反動分子」の家の出で、阿吾地出身の脱北者のチェ・グミョン氏がチュ氏のインタビューに答えた内容によると、炭鉱周辺の村には、国軍捕虜の中でも特に北朝鮮当局に反抗的だった人たちや、その他の「反動分子」が住まわされていた。他地域への移動に必要な旅行証(国内用パスポート)も発行されず、村に閉じ込められた状態で、炭鉱でのきつい労働を強いられていたという。

「万民が平等」であることになっている北朝鮮だが、実際は世界で最も過酷な身分制度が存在し、国軍捕虜などの反動分子はその最下層に置かれ、虐げられ続けているのだ。

その炭鉱で1992年(あるいは1993年)に、大規模な爆発事故が起きた。もともとメタンガスが多く発生し、爆発事故が頻繁に起きるところだが、その年に起きた爆発では坑道が崩壊し、200人を超える労働者が閉じ込められた。しかし当局は、その多くが国軍捕虜やその子孫であることから、救出作業を行わず、見殺しにしたというのだ。根絶やしにされるべき反動分子を、事実上「抹殺」したのだ。

北朝鮮で起きた様々な事件、事故は、国営メディアでは一切報道されないが、口コミによって全国に広がる。しかし、阿吾地炭鉱での事故と犠牲者の見殺しは、北朝鮮でも知られておらず、チェさんの証言によって初めて明らかにされた。

炭鉱では1958年にも39人が死亡する事故が起こり、1961年には11人が死亡。1985年7月には石炭の自然発火により坑道が崩壊し、40人が死亡する事故が起きているが、その責任は国軍捕虜になすりつけられたという。

この炭鉱で働いていた脱北女性は2007年、自由北韓放送とのインタビューで、垂直坑に出入りするためのケージと呼ばれるエレベーターの墜落事故が起きると国軍捕虜の中からスケープゴートが選ばれ、「敵の司令を受けて故意に事故を起こした」とのスパイ容疑がでっちあげられ、政治犯収容所に送られたと証言した。彼女の住んでいた村だけで4人が犠牲になったという。

阿吾地からの脱出に成功した国軍捕虜、ホ・ジェソクさんの手記によると、この炭鉱はメタンガスが多く、頻繁に爆発事故が起きていた。そのたびに「スパイの仕業」として、国軍捕虜がスケープゴートにされたのだ。例えば、ペク・ナムンという人は、坑内でタバコの火を落として爆発を引き起こしたとして、公開裁判で死刑判決を受けたという。

炭鉱には500人の国軍捕虜がいたが、彼らは「143号」または「43号」と呼ばれていた。これは政令143号に基づき、収容所にいた国軍捕虜を炭鉱に送り込んだことが由来だという。炭鉱には、罪を犯して処罰を受け送り込まれてきた人もいるが、そんな人が事故で死亡すれば調査が行われるが、国軍捕虜の場合は、それすらなされなかったとのことだ。

ナチス・ドイツは、ガス室での大量虐殺を始める前から、強制収容所に収容した人々に対して過酷な労働を課し、酷使した末に、反抗したり働けなくなったりしたら抹殺するという「労働を通じた絶滅」を続けていた。それと全く同じことが、過去70数年間、北朝鮮で行われ、今も行われているのだ。