「億万のカネをつぎ込んででも、民族反逆者を無条件で捕まえて、見せしめとして厳罰にせよ」

これは、金正恩総書記の下した指示、「1号方針」だ。

表面上は法治国家ということになっているが、実際は最高指導者の鶴の一声が何よりも効力を発するのが北朝鮮の体制。だが、特定の一般犯罪者に対して、1号方針で逮捕を命じることはそうあることではない。一体何が起きたのだろうか。詳細を、両江道(リャンガンド)のデイリーNK内部情報筋の話から紐解いてみよう。

この話の主人公は、中国との国境に接する道内の金亨稷(キムヒョンジク)郡に住む一家4人だ。彼らは、他の地域住民同様、地域に駐屯する国境警備隊と親しくしていた。地域で唯一の産業と言える密輸を円滑に行うためには、彼らの手招きが欠かせず、また彼らとしても、地域住民から得られるワイロが重要な収入源となっているからだ。

実際、この家族も密輸で生計を立て、国境警備隊の隊員がいつどこで警備に当たっているか、すべてお見通しだった。

当局は別の部隊を国境地帯に送り込んで国境警備に当たらせたり、コンクリート壁と高圧電線を建設させたりしているのだが、それはこのような地域住民と国境警備隊のしがらみが、国境警備を阻害しているという背景がある。

昨年8月には、国境警備の「怠慢」を理由に、警備隊幹部ら7人以上が処刑される事件も起きた。

さて、今回の事件が起きたのは今月1日の夜のことだった。一家は、普段から親しくしていた国境警備隊の副分隊長が深夜勤務に入る前、自宅を訪れて彼と、共に勤務する部下の分と合わせて、炭酸飲料とパンを差し入れた。

そして翌朝。勤務に当たっていた隊員が目覚めたころには、一家は既に川を渡って脱北した後だった。炭酸飲料に睡眠薬が入っていたのだった。

部隊は大騒ぎとなり、事案はすぐに平壌の国家保衛省(秘密警察)に報告され、翌日に1号方針が下されたというわけだ。

国家保衛省は、中国に派遣している要員に逮捕命令を出す一方で、中国の公安局(警察)と辺防部隊(国境警備隊)に公文を送り、協力を要請した。しかし、中国の公安当局は非協力的な姿勢を見せているという。脱北者を経済目的の不法入国者とみなし、無条件で強制送還していたことなど、中国国内の人権状況に対して国際社会の風当たりが強まっていることを意識したのかもしれない。

単なる脱北事件で金正恩氏が直々に命令を下したのは、コロナ対策として国境を厳重に封鎖しているという事情に加え、一家の行き先が韓国である可能性が高いからだろう。通常、一人での脱北は、中国での出稼ぎ目的の場合が多いが、家族単位での脱北は、先に脱北して韓国に住む家族や、脱北者支援団体などの手招きによる、韓国行きであることが多いのだ。

1号方針には続きがあるのだが、それは「人民軍が軍人に薬を飲ませ逃げたということは、軍民関係を毀損する行為で、国境の軍民の思想を全面検討せよ」というものだ。

方針に従い、国家保衛省の要員は金亨稷郡にやってきて、事件の調査を行うと同時に、国境警備隊の行政、政治、保衛の各軍官(将校)と個別面談を行った。その場で言い渡されたのは、地元住民との関係のあり方の再検討だ。

「お前たちが信じている人民が、決定的な瞬間に薬を飲ませて逃げた。逃げるよりもっとひどいこともするかもしれない。軍人たちが民間人の家に荷物を預けたり、入り浸っていたりしていないか、徹底的に調査、報告せよ。当面の間、軍人たちが民間人の家に行かないように取り締まれ」

しかし、国境警備隊と地域住民は持ちつ持たれつの関係。しばらくはおとなしくしているだろうが、ほとぼりが冷めれば元通りになるだろう。

睡眠薬の入った炭酸飲料を飲まれた副分隊長は、事件後すぐに営倉(牢屋)に入れられ、取り調べを受けている。彼は、脱北した一家は比較的裕福な暮らしをしていたが、親戚まで含めて脱北者も韓国に逃げた者も犯罪を犯して教化所(刑務所)に入った者もいない、「革命的な一家」だと認識していたと供述した。

その一方で、一家は工事が進むコンクリート壁、高圧電線と関連して、こんな発言をしてたとも述べた。

「今後密輸ができなくなれば希望がない」
「密輸ができなければ人間として暮らせない」
「畑を耕してトウモロコシでも食べてケダモノのようにいきなければならないのではないか」
「コンクリート壁で出来上がりつつあるのを見ると、今年が要(かなめ)だ」

コロナ鎖国とコンクリート壁で生きる術を絶たれ、「もはやこの国に未来はない」と見切って、命がけの脱北を敢行したのだろう。