日本ではなぜリバタリアニズム(自由原理主義)をはじめとする“自由”が恐れられているのか。新刊『テクノ・リバタリアン』(文春新書)を上梓した作家の橘玲氏に訊くと、その背後にある日本特有の社会構造を指摘する。巨大プラットフォーマーによるテクノロジーの波に日本社会と企業はどう変化していくのか。(前後編のうち後編)

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「ムラ社会の“安心”」

 前編「アメリカでは「テクノ・リバタリアン」が台頭も…日本の起業家がシリコンバレーでチャレンジしない意外な理由」で橘氏は「日本は近代社会のふりをした身分制社会だ」と指摘した。

「それを象徴しているのが日本語です。日本語の複雑な尊敬語や謙譲語では、相手との関係を決めないと正しい言葉が定まらない。相手が自分より目上か目下か、あるいは内(自身が所属する会社などの共同体の中の人)か外かを瞬時に判断し、言葉遣いを変えなくてはなりません。ネットには『敬語警察』のような人がたくさんいて、ビジネスマナーの名の下に、ルールに反した言葉遣いを検閲しています。こうして、どんなときも自分と相手の『身分』を気にする思考が日本人の中に埋め込まれたのでしょう」(橘氏、以下同)

 これが日本特有のムラ社会を形成する源泉でもある。

「日本の思想は右も左もコミュニタリアン(共同体主義者)ばかりですよね。アメリカではリバタリアニズムのルーツとされる作家のアイン・ランドの著書がベストセラーになったり、ミルトン・フリードマンやフリードリッヒ・ハイエクといった市場自由主義の経済学が大きな影響力を持っていますが、日本ではほんの一部で議論されているだけです。

『リベラル』を自称するメディアや知識人ですら差別を容認していることがよくわかるのが日本的雇用で、とりわけ非正規で働くひとたちの存在です。リベラリズムの大原則は、人種や性別、性的指向などの属性による差別を禁じることですが、日本の会社では正社員と非正規という属性によって、同じ仕事でも賃金が異なるばかりか、有給や家族手当、社宅などの福利厚生にも大きなちがいがあります。しかし、これまでこの差別はまったく問題にされなかった。

 同一労働同一賃金を徹底させて正規と非正規の区別をなくすには働き方を改革するしかありませんが、そう主張すると『ネオリベ』とか『グローバリスト』とかのレッテルが貼られ、“日本人を幸福にしてきた日本的雇用を破壊するな”とバッシングされます。リベラルなはずの労働組合が、正社員の既得権を守るために、率先して身分差別を擁護しているのが日本社会のグロテスクな現実です」

テクノロジーで解決できる問題はたくさんある

 テクノ・リバタリアンが目指すのはテクノロジーを用いた社会の最適化だ。ムラ社会の日本でもそうなっていくのだろうか。

「日本は過度に平等が重視されていて、その典型がコロナ禍で全国民に10万円を支給したばらまき政策です。しかし、収入が減るわけではない年金生活者にまで、『安心料』として10万円を配ることになんの意味があるのか。だったら、コロナで仕事を失い、生活に困っている人たちを手厚く支援した方がずっといいでしょう。

 実際、イギリスでは会社から支払われる金額を国がリアルタイムで把握しているので、収入が減った個人を特定してその銀行口座に不足分を振り込むことができた。これはきわめて合理的な仕組みですが、同じことを日本でやろうとすると、マイナンバーで国民の収入や資産を把握しなければならないでしょう。ところが日本には“個人情報原理主義”のような人たちがたくさんいて、マイナンバーは管理社会の道具だと頑強に反対しているので、どうにもなりません。

 テクノロジーで解決できる問題はたくさんあります。日本では過去の治療記録が病院間で共有されていないので、病院が変わると最初から検査を行ったり、前の病院から治療記録を取り寄せなければならない。医療データをデジタル化し、個人のアカウントに紐づけておけば、余分な検査が不要になって医療費が大幅に削減できるだけでなく、誤診を防ぎより効果的な治療が可能になるでしょう。

 マイナ保険証にパニックのような反対が起きたことを見ても、日本人は抽象的な思考が苦手で、デジタルデータよりも紙のような手で触われるものしか信じられないのでしょう。本来のリベラルは進歩主義のはずですが、日本ではリベラルなメディアがマイナ保険証で一斉にラッダイト報道に走りました。団塊の世代の読者・視聴者がテクノフォビア(テクノロジー恐怖症)で、『紙の保険証が安心』と言っておけばウケがいいからでしょう。

 日本のリベラルが理解できないのは、『測定できるものしか改善できない』という原則です。より公平で効率的な社会を作るためには、国家(行政機関)が個人情報を的確に把握している必要があります。実際、北欧はこのようなデータ駆動型社会になっていますが、日本のリベラルは実態が反動主義なので、テクノロジーを毛嫌いし、管理のための監視を拒絶します。こうして差別的で非効率な社会が温存されるわけですが、それでも自分たちは『差別』と戦っていると勝手に思い込んでいるのです」

合理的に説明できない雇用慣行は違法

 社会の最適化の波をムラ社会の日本も免れられないとしたら、日本企業の行き先はどうなるのか。

「日本的雇用の本質は、正規と非正規、親会社と子会社、海外の現地採用と本社採用のように、属性によって社員を差別することなので、リベラル化する社会では存続できません。“同じ仕事をしているのに、なぜ正社員と扱いが違うのか”と非正規から聞かれて、”お前の身分が低いからだ“とは言えませんよね。こうして裁判所も、これまで広く認められていても、合理的に説明できない雇用慣行は違法だとの判決を次々と出すようになりました。

 変化はまだまだ遅いですが、こうして日本の会社も徐々にグローバルスタンダードな雇用形態になっていかざるを得ないでしょう」

 グローバルスタンダードな雇用、例えば、ジョブ型雇用の場合、成果が上がらなければ解雇も容易となる。

「出版社を例にあげると、欧米では、新しい雑誌を創刊しようと思ったら、そのテーマにあった編集者を外部から採用してプロジェクトを立ち上げ、うまくいかなかったらチームを解散してスタッフを労働市場のプールに戻すでしょう。こうしたプロジェクト方式は日本でも映画制作などで行われていますが、年功序列・終身雇用だと、いったん雇った社員を解雇できないので、“いまいる社員でなんとかしよう”という発想になる。
 こうして適材適所ならぬ『不適材不適所』になって、本人の適性にまったく合わない仕事をさせ、社員が心を病んだり、トラブルが多発する原因になっています。これはもちろん出版社だけのことではなく、日本でイノベーションが起きない理由は労働市場の流動性の低さにあると思います」

“真実の液状化”が進んでいる

『テクノ・リバタリアン』では物理学者のエイドリアン・ベジャンが唱えたコンストラクタル法則が紹介されている。ベジャンによれば、世界に存在するあらゆる生物と無生物は単純な法則に従っており、例えば、水の中で魚が流線形に進化したように「流れがあり、かつ自由な領域があるのなら、より速く、よりなめらかに働くように進化する」という。

 河川の分岐にたとえると分かりやすいだろう。山間部の大河は平野部でいくつもの支流に分岐する。その際に起きるのが、大きな支流と小さな支流の「階層」だ。進化と自由の裏側では階層化が進むのである。

 インターネットの世界でも、すべてのサイトがアクセスを集められるわけではなく、Googleなどの一部のプラットフォーマーが膨大なアクセスを獲得する。情報が増えれば増えるほど、サイトも大きな支流と小さな支流に分岐する。そのことが予見するのは、日本のメディアの未来である。

「ウェブ上で個人が自由に情報を発信できるようになったことで、既存メディアも含めた熾烈なコンテンツ競争が起きています。そうなると、Qアノンのような陰謀論の情報と、ジャーナリストが時間をかけて取材した情報が、プラットフォーム上で等価に扱われてしまう。こうして、なにが正しいかわからないという“真実の液状化”が進んでいます。これが『ポスト・トゥルース』といわれる状況です。

 さらに今後、生成AIの性能が向上すれば、イラストや写真、動画がフェイクかどうか区別がつかなくなるでしょう。これは恐ろしい事態ですが、内容が正しいかどうかにかかわらず、ウェブ上で流通するコンテンツの量が増えればプラットフォーマーの利益は上がり、ますます巨大化していきます。この混乱のなかで、ネットの階層化はさらに進んでいくでしょう」

“大艦巨砲主義”

 メディアの場合、生き残る道は一つしかない。

「コンテンツの氾濫という事態に対するひとつの解は、Netflixのように莫大な資金を投下して他を圧倒する作品を作り、YouTuberの素人コンテンツと差別化することでしょう。しかしこの“大艦巨砲主義”はディズニーですら失敗するのですから、制作資金が減る一方の日本のメディアにはとうてい無理です。こうして、巨大なプラットフォーマーの上で玉石混交の無数のコンテンツプロバイダーが競争する“ポストモダン”の世界へと、時代は移行していくのでしょう」

 世界で起きつつある大きな変化の波に日本も飲み込まれようとしているのである。

デイリー新潮編集部