2020年、新型コロナウイルスが世界中で大流行した最中、任天堂のソフトは輝きを増した。4月、緊急事態宣言が発出されたが、ゲーム専用機「ニンテンドースイッチ」のソフト「あつまれ どうぶつの森(あつ森)」が爆発的にヒットし、「あつ森」は流行語になった。3月下旬の発売から10日余りで1177万本を売り上げたのだ。(敬称略)

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 巣ごもり消費という追い風が吹いた。21年3月期の連結決算の売上高は1兆7589億円(前期比34.4%増)、営業利益は6406億円(同81.8%増)、純利益は4803億円(同85.7%増)。純利益は過去最高を記録した。

「あつ森」は同期だけで2085万本を販売し、累計販売本数は3263万本に達した。「ニンテンドースイッチ」の販売台数は同じく2883万台。17年3月の発売から丸4年で累計販売台数は8459万台となった。

 ゲーム市場は浮き沈みが激しい。22年3月期のゲーム機「ニンテンドースイッチ」の販売見通しを従来予想の2550万台から2400万台に引き下げた。半導体の不足の直撃を受け、発売5年目のスイッチは正念場だ。それでも、円安などが追い風となり、22年3月期の連結純利益の見通しを3500億円へと従来予想から100億円上方修正した。

 こういうご時勢だ。景気の良い話に人々は飢えているから、任天堂で憂さ晴らしになればと思い、敢えて取り上げることにした。

 2016年7月、ポケモンGOの配信が日本でも始まった。ポケモンGOは米ゲームベンチャーのナイアンティック社が、ゲーム企画会社のポケモン社と共同開発した。任天堂の子会社のポケモン社は、ポケットモンスターの権利保有者として、米ナイアンティック社からライセンス料を受け取る仕組みになっていた。

ポケモンGOの大ヒット

 正確に言うと、ポケモン社は任天堂が議決権の32%を保有する持分法適用会社である。

「ポケモンGOの世界的な大ヒットは、もはや社会的現象だ」とまで言われた。

 ポケモンGOは任天堂の主力事業である家庭用ゲーム機と相乗効果が期待されていた。欧米でもポケモンGOの配信開始以来、携帯型ゲーム機「ニンテンドー3DS」の販売がハード、ソフトの両面から伸びた。

 任天堂はポケモンやスーパーマリオなどスマホ向けゲームのキャラクターを豊富に抱える。知的財産(IP)を活用するという任天堂の戦略は、もともと株式市場で評価が高かった。ポケモンGOの大ヒットでさらに、ゲーム機との相乗効果が期待されるようになったわけだ。

 任天堂と米国でユニバーサル・スタジオを運営するユニバーサル・パークス&リゾーツは、任天堂のゲームの世界観を体験できるエリアを日本の大阪、米国のオーランドとハリウッドの3都市で展開すると発表した。それぞれのテーマパーク内に任天堂のエリアが誕生する。任天堂はキャラクターの使用を通じてロイヤリティ収入を得る、新たな仕組みを構築した。

 ポケモンGOの世界的大ヒットで、ライセンスビジネスの間口が広がった。

ファミコンで“大勝負”

 大阪の「スーパー・ニンテンドー・ワールド」は2020年の東京オリンピックに合わせ、当初は同年夏前にオープンする予定だったが、コロナ禍でユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)は営業を休止したため、任天堂エリアの開業も無期限の延期となった。

 その後、21年2月4日にグランドオープンすることが改めてアナウンスされた。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大で大阪府に緊急事態宣言が出されたことから再度延期となり、3月18日にやっとオープンにこぎつけた。

 USJは21年9月28日、2024年の開業を目指し「ドンキーコング」をテーマにしたスーパー・ニンテンドー・ワールドの拡張を発表した。計画によると、コースター型のランド・アクションや飲食、物販、インタラクティング施設が建設される予定だ。

 1983年7月15日、任天堂は家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を発売した。開発を指示したのは3代目社長の山内溥(ひろし)。浮き沈みが激しい業務用ゲーム事業から手を引き、家庭用で大勝負に出た。

 ファミコンは発売半年後から急激に売り上げを伸ばし、累計販売台数は6191万台に達した。ソフト販売本数も、85年の「スーパーマリオブラザーズ」などと同じ5億本超の大ヒットとなり、任天堂が世界企業に飛躍するきっかけとなった。

時価総額10兆円超

 東京株式市場で任天堂株の人気は高い。

 2007年10月には株価が7万円を突破し、時価総額は10兆円を超えた。時価総額10兆円超えはトヨタ自動車(23兆円)、三菱東京UFJフィナンシャルグループ(12兆円)に次ぐ規模。“ゲームソフト屋”にとって、とてつもない大記録である。

 他人のフトコロ具合を詮索しても仕方がないが、山内溥オーナーの持ち株(1416万株)の時価総額を最高値(7万3200円=07年11月)で計算すると1兆円を超えた。イチロー選手が同年にシアトル・マリナーズと結んだ5年契約で総額110億円など安い、安い。

 ポスティングシステムを利用してイチローが大リーグ入りする時も、当時、シアトル・マリナーズのオーナーだった山内溥が「イチロー獲り」を直接指示したと言われている。

 日本の大企業で米シアトルに現地法人の本社を置くのは任天堂だけだった。マリナーズの買収は、地元に球団を引き留めて欲しいとの要請に山内溥が応えたまでのことだった。

 07年当時の社員のボーナス支給額も金融関係を除けば任天堂が日本一だった。「ニンテンドー」はみんなに幸福をもたらした。米国の景気がサブプライムローン(低所得者向けの住宅融資)ショックで下降線をたどり、個人消費に影を落とすまでは、まさにそうだった。

花札が会社の原点

 任天堂の創業は1889(明治22)年9月23日。有名な工芸職人だった山内房治郎が京都の平安神宮の近くに「任天堂骨牌(こっぱい)」を創立、花札の製造を開始したのが始まりだ。

 花札の裏に「大統領」の印を押した「大統領印の花札」は、関西の賭博場で広く使われた。プロの博打(ばくち)打ちは勝負のたびに新しい札を使ったから、任天堂の花札は良く売れた。

 房治郎は工芸家であると同時に事業家でもあった。日本専売公社(現・日本たばこ産業[JT])と交渉して、花札とカードをタバコの流通網に乗せることに成功した。賭博場の客はよくタバコを吸う。煙草と花札は親戚のようなもの、という強引なこじつけが利いたというから不思議である。

 1902(明治35)年、日本で初めて、国産トランプを製造したのも房治郎だ。

 房治郎には跡継ぎとなる男の子がいなかった。婿養子として金田積良(かねだ・せきりょう)を迎えた。山内積良に改名して2代目社長となる。積良の子供も娘ばかり。3代目の跡取りとして長女の婿養子として工芸家の家に生まれた稲葉鹿之丞(いなば・しかのじょう)を迎え入れた。

中興の祖・山内溥

 中興の祖は、房治郎の曾孫の溥。山内家、念願の男の子である。5歳のとき、父親の鹿之丞が突如、出奔。母親からも離されて、祖父母の元で跡取りとして育てられた。

 祖父が買い与えた渋谷区松涛の豪邸から早稲田大学に通い、ビリヤードに熱中。贅沢三昧の生活を送った。

 この間、祖父が病に倒れ、早大第二法学部を中退して京都に戻り、家業の丸福(現・任天堂)を継いだ。1949(昭和24)年、22歳の時だ。

 オイルショックで倒産の危機に直面した溥は、脱花札・トランプを目指し、テレビゲームに参入した。危機感の裏返しである。溥は社長に就任して以来、倒産の危機を3度経験したと語っている。

 1983(昭和58)年、ファミコンが子供たちの間で爆発的な人気を呼んだ。テレビに繋げると、ブラウン管の画面を利用して様々なゲームを楽しめる、カセット式のテレビゲーム機である。山内溥は100万台を超す大量生産を決裁。販売価格を1万4800円とした。3万〜5万円はする他社のゲーム機の半値以下という破格の値付けだった。

 山内溥の読みは当たった。子供たちに大いに支持された。

資産の半分は現金

 ゲーム機では最後発だったが、「面白いソフトを作る」エンターテインメント会社に特化し、世界のニンテンドーへと大変身を遂げていく。最初のゲーム機へのチャレンジが成功したのは大きかった。

 ゲームのソフトのコストは開発費と人件費だ。

 頭脳(ブレイン)の仕事だから大規模な設備投資を必要としない。ゲームソフトで得た利益は、M&A(企業の合併・買収)などに回すわけでも、配当を大幅に積み増して株主を喜ばせるわけでもない。ひたすら預金に励んだ。

 倒産の危機に瀕した時の惨めさ、借金取りに追い立てられた心理的な後ろめたさが、預金に向かわせた。手元に現金を残していれば、銀行から借金をせず、新しいゲーム機やソフトにトライできた。

 ちなみに2021年3月期決算時点で現預金は9320億円、純資産1兆8746億円。資産の半分がキャッシュであり、もちろん無借金経営だ。

後継者解任のナゾ

 山内溥は早くから引退を宣言していたが、引退は先送りされてきた。後継者に恵まれなかったからだ。

 後継者と目されていたのが娘婿の荒川實だった。京大から米マサチューセッツ工科大を経て丸紅に入社した商社マン。任天堂の米国進出に当たり、初期のファミコンの時代から関わり、家庭用ゲーム機を米国に普及させた功労者だ。イチローが活躍するシアトル・マリナーズを任天堂が買収したとき、中心になって動いたのも荒川だった。

 ところが溥は「彼は任天堂の社長には向かない」とのたった一言で、荒川を解任してしまう。米国での荒川の実績は申し分なかったが、商社マンとしての生き様が山内溥のスタイルに合わなかったのかもしれない。

 もう少し山内の心の内に立ち入ってみよう。倒産の危機を経験して借金することの惨めさを体の隅々にまで叩き込んできた溥は、多額の資金を使って市場を開拓する荒川とは根本的に経営のスタイルが違ったということなのだろう。オーナー経営者は、考え方の違う部下には寛容ではない。

 荒川實の解任は未だに、「任天堂、最大のナゾ」とされる事件である。

「ハードの人」と「ソフトの人」

 山内溥は一匹狼である。

 メディアのインタビューにもほとんど応じたことがない。日本経済新聞の『私の履歴書』を1カ月間、連載することが、経営者にとって一流の証とされるが、何度となく掲載のオファーを断ってきた。

 その溥が、任天堂の経営の本質を語った珍しい語録が残されている。

「特集 任天堂はなぜ強い」(『日経ビジネス』2007年12月17日号)で次のように語っている。

《「(生活)必需品を作っているハードの会社と(娯楽分野の)ソフトの会社というのは、体質が全然違うんですね。言い換えると、ハードで成功した経営者がソフトをやれるのかというと、とてもそうはいかないというのが僕の考えです》

《だから、いったい何を基準にして任天堂に必要な人を選ぶのかといえば、果たしてその人が『ソフト体質』を持っているか否か。実際に接してみると、この人はハードの人、この人は体質的にソフトに順応できる人というのが分かってくるんですね。(中略)ハード体質の経営者がもしいたとしたら、辞めてくれと言います。そうしないと任天堂という企業はつぶれるんですよ》

山内溥の経営観

《ただ、社員にはハード体質の奴もたくさんいる。だからといって、辞めさせるわけにはいかんでしょう。ファミコンの時は、たまたまソフト体質の人間に恵まれたけれども、次の段階では新しい開発者が出てきた。それが不幸にして、ソフト体質ではなかった。だから『NINTENDO64』のようなものが作られたわけ》

《あの時、僕は不満やった。64が出た時に『ダメだな、任天堂は』と思ったよ。でも、僕に運があったのは、その代わりに『ゲームボーイ』が誕生して『ポケモン』も出てきたこと。任天堂にはやっぱりソフト体質の人々がいて、それで何とか折り合いがついた。これは何かと言ったら、もう運が良かったというしか言いようがない」》

 溥の経営観、経営者観がストレートに出ている、唯一といっていい発言である。

「NINTENDO 64」の切り捨て

 任天堂は人を驚かせるハード&ソフトを次々と作ってきた。日本初のプラスチック製トランプ、弾の代わりに光が出る光線銃SP、携帯型ゲーム&ウォッチ、ファミコン(ファミリーコンピューター)etc。

 スーパーファミコンの後継機種として、1996年6月に発売したのが家庭用ゲーム機「NINTENDO 64」である。

 当初は次世代ゲーム機の本命として期待され、「ゲームが変わる。64が変える」のキャッチコピーとともに華々しく登場した。

 だが、64は失敗した。ゲームのコンテンツ(内容)よりも性能の追求に走った結果、消費者からそっぽを向かれた。

 この反省から溥は「マニアにしか支持されないような商品作り」を完全に否定した。

 いたずらに性能競争することは敷居を高くするだけだ。例えば、ゲームをやりたい女性のユーザーは開拓できず、ゲームビジネスの危機を招くと考えた。

「任天堂に必要なのはソフト体質をもっている人」という発言の意味が良くわかる。「64」はハード体質の人が作ったから失敗したと考え、スパッと切って捨てたのである。

 山内溥の名前について書いておこうと思う。

 昔、有価証券報告書など公式文書に書かれている名前は「山内博」なのである。「電話帳に博があまり多いので、50歳の時に溥に変えた」というのだ。

「マリオの父」が語る山内溥

 溥は、どんなゲームが面白いか、ヒットするかを嗅ぎわける嗅覚があった。

 京都で花札やトランプを製造するローカル企業にすぎなかった任天堂を世界的大企業に押し上げた功労者の一人に、専務でゲームデザイナーの宮本茂がいる。彼がデザインしたゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」は、世界一売れたゲームとしてギネスブックに登録されている。

「マリオの父」と呼ばれる宮本が、ゲームの情報サイトで山内について、こう述懐しているのを見つけた。

《「山内さんが社長だった時、どんな冒険が上手くいって、何が売れないかには独特の嗅覚がありました。山内さんが“これはいいんじゃない?”といった時は、プロトタイプ(註:基本設計)はほぼ合格点に近づいているということなのです。(中略)山内さんはソフトがどれくらい売れるかに関して、誰よりも正確な予想ができたんです。『ドンキーコング』を見せた時、他のプロジェクトを全て中止してこれに注力するよう言われました。『スーパーマリオブラザーズ』を見せた時の言葉は今も覚えています。“これはすごいね。地上と、空の上と、水中さえ行くことができる。こりゃ、みんな驚くだろうね”」(「INSIDE」2010年6月7日付)》

ビル・ゲイツが任天堂を狙う

 次世代ゲーム機として期待された「NINTENDO 64」が不発に終わり、任天堂は深刻な事態に陥った。ソニーの「PlayStation(プレイステーション)」に首位の座を明け渡し、大きく水をあけられた。マイクロソフトの「Xbox」にも追い抜かれ、屈辱の業界3位に転落した。

「任天堂はマイクロソフトに買収されるのではないか」との噂がゲーム業界を駆け巡ったのは当然の帰結だった。

 2004年8月、ドイツの経済誌が「米マイクロソフトが任天堂の買収に関心を持っている」と報じ、大騒ぎになった。

 同誌によると、マイクロソフト会長のビル・ゲイツが「任天堂の大株主の山内が保有している株式を売るというのなら、『直ぐにでも買収提案を出す』と語った」というのだ。マイクロソフトなら容易に買収できる。

 家庭用ゲーム機は、マイクロソフト、ソニー、任天堂が世界市場で三つ巴の戦いを繰り広げていた。日本市場で勝つために任天堂の買収に照準を合わせてきた、とゲーム業界のアナリストたちは噂した。

 実は、ビル・ゲイツが任天堂買収に意欲を燃やすのは、これが初めてではなかった。2000年にも買収を打診して、「6〜7回交渉を持ったが、結局、まとまらなかった」(関係者)。

「ソフトを作る男」が後継者

 冷徹な事業家と評されていた山内博が、我が子と同じ任天堂に強い思い入れがあるのは分かっていた。だが、「条件次第で、最後にして最大の決断(会社の売却)をするのではないか」と息をひそめて待っていた業界関係者がいたのも事実である。ビル・ゲイツは任天堂獲りに失敗した、というのが歴史の結論である。

 溥が後継者として白羽の矢を立てたのは岩田聡である。1992年、任天堂とファミコンを共同開発していたHAL研究所が倒産した。任天堂が支援の条件として出したのが、HALの取締役だった岩田をHALの社長にすることだった。

 岩田は札幌南高校時代にゲームをたくさん作り、「札幌の天才少年」と呼ばれた。溥は「誰よりも面白いソフトを作る」岩田の特異な才能を高く評価していた。

 HALの経営再建を成し遂げた岩田は任天堂の役員に招聘された。そして2年後の2002年、山内は岩田に社長の椅子をバトンタッチ。第一線から半歩退き、取締役会長になった。

 溥は前掲の『日経ビジネス』のインタビューでこう答えている。

《「僕が岩田を社長にしたのは(彼がソフト体質の経営者だったから)、いや彼だけじゃない、任天堂には今6人の代表取締役がいるけど、それは結局、体質がハードでないはずや、という判断をしたからだ」》

赤字転落の衝撃

 岩田は巻き返しに出た。ソニーはハードが主でソフトが従の路線をとっていた。任天堂は真逆のソフトが主でハードは従とした。先端技術を駆使し、多機能性を追求しただけでは、楽しさや面白さに直結しないことを、溥の“直弟子”の岩田は体で知っていた。

 ハードの操作はあくまで簡単にして、楽しさに徹した。その第1弾が、04年12月に発売した携帯用ゲーム機「ニンテンドーDS」。第2弾が06年12月に発売した据置型ゲーム機「Wii」。いずれも世界的に大ヒットし、任天堂は世界に冠たる優良企業に成長した。任天堂の身売りの話など雲散霧消した。05年、溥は相談役になった。

 ところが、10年9月中間連結決算は赤字に転落。「任天堂の成長神話は、ひとまず終わった」とアナリストは言い始めた。

 これはゲーム会社の宿命みたいなものなのだ。娯楽というものは飽きられるものだからである。ここが生活必需品と根本的に違う点だ。娯楽は飽きられる運命にある。顧客に手に取ってもらえるかどうかは、素晴らしい発想で、どこにもない新しい商品を産み出すことができるかどうかで決まる。それができるのが、山内博が言うところのソフトな体質の経営者なのだ。

スイッチの大ヒット

 東京株式市場に任天堂株の人気が戻ってきた。2017年度の株式時価総額の増加額のランキングで任天堂が首位に立った。1年間で時価総額は2兆9785億円増え、期末の残高が6兆6386億円となった。

 17年3月に発売した家庭用ゲーム機「ニンテンドースイッチ」の大ヒットが、低迷していた業績を一気に回復させた。スイッチは1年間で1505万台売れた。18年3月期の連結決算で売上高は前期比2・2倍の1兆556億円。9年ぶりの増収で、7年ぶりに売上は1兆円の大台を超えた。

 新型ゲーム機の販売で最も重要なのは立ち上げ時期だ。魅力的なソフトがあればゲーム機本体も売れるという好循環をもたらす。

 スイッチはスタートダッシュに成功した。「スーパーマリオ オデッセイ」が1041万本、「マリオカード8デラックス」が922万本など、ソフトの販売本数は6351万本になった。全世界で1億台以上売った06年発売の「Wii」に匹敵するペースで売れたことになる。

 スイッチは2015年に55歳で急逝した元社長の岩田聡が開発を指示した遺産だ。急遽、リリーフ役として社長に就いた君島達己は、スイッチの成功、業績のV字回復を機に若返りを図る。

「天国と地獄しかない」業界

 2018年6月古川俊太郎が、君島の後任の社長に就いた。コロナ禍、巣ごもり消費の追い風で、「あつ森」などゲームソフトが爆発的に売れ、好業績を叩き出した。

 古川は30歳代半ばまでの11年間、ドイツにある欧州総括会社に赴任して経営管理の経験を積み、君島が社長の時代に経営企画室長としてゲーム機の販売計画作りに携わった。君島はソフトのメーカーにゲーム機(スイッチ)の詳細な機能の情報を公開し、ソフトの開発を促した。魅力的なソフトが途切れないよう綿密な計画を練ったことがスイッチの成功をもたらした、と分析されている。

 問題はこれからだ。スイッチはピークアウトする。スイッチの次のヒットを生み出せるにかかる。

 古川は社長就任会見で、「この業界は天国と地獄しかない」と言い切った。これまでも任天堂は、ゲーム機の当たり外れで天国と地獄を行き来してきた。

 山内溥は、経営者の成功のカギは「ソフト体質の有無」にあると断言した。任天堂の経営はカリスマの2人が引っ張ってきた。創業家の3代目社長・山内溥と、元社長で今は亡き岩田聡だ。

 岩田の後任の君島は三和銀行(現・三菱UFJ銀行)出身で、古川は経理畑出身の実務家。およそ「ソフト体質」の人物とは思えない。ゲームの開発者たちから「古川WHO?」との声が上がったほどだった。

「倒産寸前」は合計3回

 溥は「運を天に任せたりせず、人事を尽して天命を待つ」人だった

 絵に描いたようなサクセスストーリーである世界企業への道を訊かれると、溥は「ファミコンを出す時もいろいろ迷ったわけではなく、それしかなかったから。米国進出だって成算があったわけではない。要するに、任天堂は運がよかっただけです」といった調子で淡々と答えていた。

 謙遜しているのかと思えば、決してそうではない。

「運を実力だと錯覚するような経営者は愚かだ」という過激な言葉が飛び出すところからみると、運・オールマイティ論者でもない。

「俺の経営がうまかったから成功した」と思うような経営者は、早晩、墓穴を掘ることになる。この警句は、溥が自分自身に向けたものなのだ。

 一時的な成功に浮かれないのは、盛者必衰の歴史に彩られた京都に育ったからだろう。溥自身は、いつ潰れても不思議ではないと言われた苦しい時期をくぐり抜けてきている。3度も倒産寸前までいった。ファミコンがヒットするまでは「このままパッとしないままで終わるのではないかと思った」と語っている。自称「良くも悪くもゲーム屋」の山内の辞書にある運という言葉には、彼にしか実感できない重さがあるようだ。

山内溥の最期

 任天堂の社名は「運を天に任せる」に由来する。

 付言するなら、溥は「運を天に任せたりせず、人事を尽して天命を待つ」人だった。山内溥は孤高を貫いた。功なりなり名を遂げた経営者は、地元の商工会議所の会頭や経済団体の会長など対外的な活動に力を入れて勲章を狙う。だが、溥は「会社を経営するのは雇用を吸収した上で納税するのが目的。経済団体に参加する必要はない」と、京都財界には一切顔を出さなかった。

 2013年9月19日死去。享年85歳だった。

遺族のその後

 山内溥・元社長の保有株式が4人の遺族に相続された。任天堂が2013年12月25日、近畿財務局に提出した変更報告書で判明した。

 山内溥は1416万5000株、発行済み株式の10.00%を保有する筆頭株主だったが、それを市場外取引で溥の家族4人が相続した。

 長男・山内克仁が429万1200株(所有割合は3.03%)、次男・山内万丈も429万1200株(同)、長女・荒川陽子が279万1300株(同1.97%)、二女・田中富二子も279万1300株(同)だった。

 長男の山内克仁は任天堂の企画部部長。長女の荒川陽子の夫は元米国任天堂社長の荒川實だ。實については既に書いた。

 任天堂を世界的なゲームメーカーに育てた山内溥は莫大な遺産を遺した。上場株式の評価は、死亡した日からさかのぼって2〜3カ月間の平均株価を元に行われるが、亡くなった日の株価(1万1090円)で計算すると遺産は株式だけで1570億円。2007年11月に任天堂株は7万3200円もの高値がついた。上場来の高値である。その時点での資産は1兆円を超えていた。したがって相続税も巨額にならざるを得ない。

二男は投資家に転進

 任天堂は2014年2月4日、市場外取引で950万株(同7.82%)の自社株式を取得した。4名の遺族が相続税の支払いのために相続した任天堂株の67%を売却したためである。この結果、任天堂が保有する自社株式は2329万株、発行済み株式総数に占める割合は16.4%となった。

 長男の山内克仁は2016年に任天堂を退社、株式会社山内の代表取締役に就任。任天堂の旧本社屋・山内任天堂をホテル「かぶやまProject」としてリノベーションし、2021年4月30日に開業した。

 次男の山内万丈は溥の養子で、血縁的には孫にあたる。

 万丈は2020年、遺産運用を目的に「ヤマウチ・ナンバーテン・ファミリー・オフィス」を立ち上げた。富裕層が資産運用のために設立するファミリーオフィスで、運用資金の規模は1000億円超に上る。

 2021年1月、ジャスダック上場のソフトウエア開発会社、ジャパンシステムの経営陣による買収(MBO)に、万丈の会社が資金を支援したと報じられた。5月に資産管理アプリのマネーツリー(非上場)の第三者割当増資を引き受けるなど、運用の実態の一端が明らかになった。

 溥の莫大な遺産のおかげで、長男の山内克仁はホテルのオーナーに。次男の山内万丈は投資家に転身した。

有森隆(ありもり・たかし)
経済ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒。30年間、全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書に『日銀エリートの「挫折と転落」――木村剛「天、我に味方せず」』(講談社)、『海外大型M&A 大失敗の内幕』、『社長解任 権力抗争の内幕』、『社長引責 破綻からV字回復の内幕』、『住友銀行暗黒史』(以上、さくら舎)、『実録アングラマネー』、『創業家物語』、『企業舎弟闇の抗争』(講談社+α文庫)、『異端社長の流儀』(だいわ文庫)、『プロ経営者の時代』(千倉書房)などがある。

デイリー新潮編集部