朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回取り上げるのは、コメディアンで喜劇役者の関敬六さん(1928〜2006)です。渥美清さん(1928〜1996)の盟友であり、浅草芸人として活躍しました。実は小泉さんとも長い付き合いがあったそうです。映画「男はつらいよ」シリーズでもお馴染みで、渥美さんとの知られざる関係など、とっておきの秘話を明かしてくれます。

渥美清との深い友情

 まん丸顔に「ダドーッ」と意味不明のセリフ。不器用ながらも人間味あふれる芸でファンに愛された。

 コメディアンで喜劇役者の関敬六さん(本名・関谷敬二)。2006年8月26日、東京・葛飾の斎場で営まれた葬儀には、ヒット曲「浅草の唄」の威勢のいいメロディーが流れ、棺には大好きだった競艇の舟券が入れられた。

 葬儀というとしめやかで悲しいムードになるが、関さんの人柄を忍ばせるようなにぎやかで明るい葬儀だった。

 そんな関さんの自宅マンション近くに暮らしていたこともあり、私は関さんの家には何度も行った。どんなものでも「ウメェ、ウメェ」と腹いっぱい食べていたという関さんだったが、糖尿病もあってかお茶を飲むときも甘い物は控えるようにしていた。

 とはいえ、「今日は大丈夫だ」というときは本当においしそうに甘い物を頬張っていた。

 いろいろ話をうかがった。特に面白かったのは親友だった渥美清さんの話である。

 ともに1928(昭和3)年3月生まれ。渥美さんのほうが少し早く生まれているものの、本当の兄弟のようだった。8月4日の渥美さんの命日になると、私は新宿区にある菩提寺まで関さんと一緒に墓参りをし、手を合わせた。

「渥美やん、最近仕事がないんだ。何とかしてくれよ」

 お墓に向かって真剣に語りかけていた関さんの姿が今でも目に浮かぶ。「こうやって祈ると、本当に仕事が回ってくるんだ。御利益があるんだよ」と話していた。

 関さんには「商売繁盛 」という歌もあったが、客商売は好きだったようだ。東京の東端、江戸川区小岩。カラオケが鳴り響く盛り場の一角に、関さんが経営していたラウンジがあった。開店は1975年。映画「男はつらいよ」のロケ地、葛飾区柴又も近い。

「関やんの店、最近客が少なくて困っているようなんだ。俺がおごるから行ってくれないか」

 渥美さんは撮影が終わると、スタッフに頼んだ。

 翌日、「昨夜は何人くらい集まったの? 盛り上がった?」と渥美さんは必ず尋ねた。請求書を見るとうれしそうに「へえ〜、こんなもんで良かったの」。金額は大抵水増ししてあったが、渥美さんはそんなことは了解済み。いつも笑顔で請求書を受け取ったという。

 プライベートでも関さんのスナックに顔を出した渥美さん。ステージに上がると「関やんをよろしく」と客にあいさつしたうえで、「♪わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です」と映画「男はつらいよ 」の主題歌を歌った。当然、店の客は大喜び。私的な付き合いを嫌った渥美さんだったが、関さんだけは別だった。

税務署勤務から喜劇役者へ

 ここで関さんの経歴を振り返ってみたい。

 栃木県出身。陸軍特別幹部候補兵として従軍したというから、成績は優秀だったのだろう。戦後、法政大学に入学。卒業後は浅草の税務署に勤務したが、芝居小屋や劇場が立ち並ぶ浅草六区興業街に入り浸りになり、税務署を退職。「人を笑わせる仕事をしたい」と喜劇役者・榎本健一(1904〜1970)が率いる「エノケン劇団」を経て、1953年、ストリップ劇場「浅草フランス座」に押しかけて入門した。

 当時のフランス座では踊りと踊りの幕間にコメディアンが出演。楽屋に「おーっす」と大きな声で入ってきた見習いが渥美さんだった。

「まったく汚ねぇ楽屋だなぁ。それに何だか薄ら寒くって、こっちまで貧乏くさくなっちゃうよ。なぁ、ニイ(兄)さん」

 寅さんのようなセリフで関さんに語りかけてきたという。

 丸顔の関さんと四角い顔の渥美さん。2人はすぐに親しくなった。国際劇場の近くに安酒場があり、もつ鍋をつまみに2級酒を飲み、鼻歌まじりで夜の浅草を歩いた。

 吉原の枝垂れ柳が「おいで、おいで」と手招きをしているようだったが、吉原の門をくぐったところでカネはない。うらめしく見過ごしながら龍泉寺の近くにあった関さんの下宿に向かった。3畳一間しかなかったが、一緒にせんべい布団にくるまって寝たこともあった。

 話を戻そう。

 1975年、浅草で自らが主宰する劇団「関敬六劇団」を旗揚げし、座長になった関さん。まさに「一国一城の主」になったが、小岩にあった店の経営も楽しかったようだ。開店時の店名は「民謡酒場 けいろく」。だが、演歌が下火になったためラウンジに切り替えた。

 店の客は芸能関係者だけではなかった。ざっくばらんな関さんの人柄に惹かれ、さまざまな人が集まってきた。競艇の予想屋、パチンコ店の店長、トラックの運転手……。みんなで一緒に歌ったりコントを演じたりして、笑いが絶えなかった。

「僕はホラ、芸のうまい俳優じゃないでしょ。でも、それがお客さんには親しまれたんだなあ」

 関さんが真顔でそう話したことを私はよく覚えている。

 さて、関さんといえば、映画「男はつらいよ」シリーズで寅さんのテキヤ仲間の「ポンシュウ」などを演じた。演技に厳しい山田洋次監督(92)は関さんの起用に積極的ではない時期もあったそうだが、渥美さんにとっては心を許せる仲間が身近にひとりでもいることは本当に心強かっただろう。

 何度もNGを連発する関さんを見ながら、「監督、こいつの場合は仕事に来ているんじゃなくて遊びに来ているんですから」と冗談を飛ばしてかばったこともあった。ロケの合間に渥美さんから小遣いをもらって、競艇や夜の街に繰り出すことも多々あった。

 極めつきは第41作「寅次郎心の旅路」(1989年)だろう。関さんの出番は後ろ姿のワンシーンだけだったが、ロケ先のウィーンへの往復の飛行機は渥美さんの隣のファーストクラスだった。そのときの写真を関さんは大切に持っていた。

 岡山ロケの合間には、渥美さんとおそろいの位牌を作った。「朋友渥美清と之を作る」と刻まれた位牌。私も見せてもらったが、渥美さんは病気については何も教えてくれなかったそうである。1996年8月4日、渥美さんが転移性肺がんのため68歳で旅立ったときも何も知らなかった。

「お前ずるいよ。なんで先に死んじゃったんだよ」

 テレビの追悼番組を収録中、男泣きした。直後、脳梗塞に倒れたが、懸命なリハビリの末、浅草の舞台に復帰。「喜劇の灯を消すな」を合言葉に1998年、コメディアンの橋達也さん(1937〜2012)と「お笑い浅草21世紀」を旗揚げした。

日本最北の地に届いた訃報

 私が関さんとの親交を深めたのもそのころだ。新聞記者生活の中で初めて上梓した「東京下町」(創森社)の出版パーティー(2003年9月)。会場となったグランドキャバレー「北千住 ハリウッド」にも特別ゲストとして出演してくれた。

 だが、糖尿病が悪化し、2005年から入退院を繰り返した。精密検査の結果、正常な血液が作れなくなる病気「骨髄異形成症候群」と診断された。05年春に出演した浅草・木馬亭の舞台「お笑い浅草21世紀」が最後の仕事になった。病院では高熱に浮かされながらも、奥さんに向かって「靴を履かせろ」と話しかけたという。

「師匠が先ほど亡くなりました」

 06年8月23日午前3時すぎ、弟子の関遊六(ゆうろく=50)さんから携帯電話に連絡が入った。死因は肺炎だった。

 当時、私は日本最北の北海道稚内市にあった朝日新聞稚内支局に支局長として勤務していたが、この連絡のおかげで関さんの訃報を夕刊社会面の特ダネで報じることができた。

《関敬六さん死去 寅さんの親友役、浅草舞台史彩る》

 他の一般紙もスポーツ紙も通信社もテレビ局もキャッチできなかった訃報だけに、「どうして朝日新聞だけが報じることができたのだろう」と各社の間で不思議がられたという。

 遊六さんによると、あのとき携帯電話で連絡したのは、芸人の谷幹一さん(1932〜2007)と橋達也さん、そして私の3人だけだった。日本最北の地に届いた訃報。あれは関さんから私へのプレゼントだったのではないか。

 次回は、「ゲゲゲの鬼太郎」など数々の妖怪漫画を手がけた水木しげるさん(1922〜2015)。「妖怪の棲めない国はダメになる」と言っていた水木さんの死生観に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部