朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は漫画家の水木しげるさん(1922〜2015)です。「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる様々な妖怪たちもお馴染みですが、なんと水木さん、とんでもない「屁の達人」でもあったそうです。気取らずユーモア精神を忘れず93歳まで生きた水木さんの人生に迫ります。

「温かいほうがいい」と南方の激戦地へ

 電灯などない時代、陽が西に沈むと、世界は暗闇に包まれた。人々はそこに「異界」を見出し、魑魅魍魎が跋扈する姿を想像した。ヒタリ、ヒタリと迫ってくる不気味な気配。さあ、妖怪たちの出番である。

 そんな怪異な世界に限りない愛情を寄せていたのが、漫画家・水木しげる(本名・武良茂)さんだった。幼少期を過ごした鳥取県境港市の「水木しげるロード」には妖怪のブロンズ像が並んでいる。

 数年前、取材で訪ねたが、古木に棲むと伝わる沖縄のキジムナーの像があった。東北を中心にいまも目撃証言がある座敷童子の像もあった。「日本の各地から妖怪たちが集まってきたのです」と土産物店主は言う。

 人間の欲望や社会に対するやり場のない声を反映した妖怪もいるが、数多の妖怪の中で誰もが認める人気者といえば、水木さんが描いた漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の主人公・鬼太郎だろう。

 幽霊族の最後の生き残りとされ、先祖の霊毛で編んだちゃんちゃんこを着ている。悪い妖怪の退治で今日も忙しい鬼太郎。下駄を飛ばして思いのままに動かしたり、髪の毛を鋭い針のように飛ばしたり。ピンチのときは体の中から電気を発したりもする。カランコロン、カランコロン……。水木さんの故郷にいると、どこからか鬼太郎の下駄の音が聞こえてくるようだ。

 さて、水木さんの経歴について簡単に年表で紹介しよう(丸括弧内はそのころの水木さんの様子など)。

1922(大正11)年3月8日:大阪府で生まれ、生後まもなく母の故郷である鳥取県境港市に移る(4歳で言葉を発したという。発した言葉は「ネンコンババ(猫の糞)」。布団で粗相をした際、猫のせいにしようとしたらしい)

1943年:陸軍鳥取連隊に入隊。翌年、激戦地パプアニューギニアのラバウルで米軍の空襲に遭い、左腕を失う(南か北、どちらがいいかと上官に尋ねられ、温かいほうがいいと答えた結果、南の激戦地になったという)

1946年:復員。数年後、武蔵野美術学校(現・武蔵野美大)入学

1951年:神戸で紙芝居作家に。やがて貸本漫画家を目指し上京

1958年:「ロケットマン」で漫画家デビュー

1961年:見合い結婚(もうすぐ40歳になる水木さんを心配した両親が縁談の話を持ってくる。出会ってすぐに結婚。妻・布枝さん=92 )

1965年:鬼太郎、週刊少年マガジンに登場

1967年:「墓場の鬼太郎」のテレビアニメ化決定(「墓場」という言葉に玩具スポンサーが難色を示し、幼少期の水木さんのあだ名「げげ」をもじって「ゲゲゲの鬼太郎」となる)

2003年:水木しげる記念館が境港にオープン

2010年:NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が大ヒット(水木夫妻を特集した雑誌も数多く発行される。米子空港の愛称が「米子鬼太郎空港」に)

2015年11月30日:多臓器不全 で都内の病院で死去。享年93(同月11日、東京都調布市の自宅で転倒。頭部を強く打ち入院。緊急手術により回復したが、容体が急変した)

放屁の達人

 幼少時の妖怪体験、戦場の地獄と南方の楽園。食べ物と眠りを愛した天衣無縫の人柄。その“大往生”を多くの人が悼んだが、印象的だったのは水木さんの影響を受けた識者たちのコメントだ。15年12月1日付の朝日新聞の朝刊社会面を読み返す。

 文化人類学から人間の深層心理、哲学まで縦横に語る博識に驚いたのはノンフィクション作家の足立倫行さん(76 )。

《 『ゲゲゲの鬼太郎』で一番好きなキャラクターを尋ねると(水木さんは)『ねずみ男』を挙げた。いつも人間や鬼太郎をだましながらも、何もなかったように平然と姿を現す。戦争の不条理を通じて人間の裏にある本質を見抜いていたのだと思います》

 妖怪研究で水木さんに師事した作家・荒俣宏さん(76 )。

《 明治以後忘れ去られた日本文化の根源、異なるものとの和やかなお付き合い、をみずから実践し、妖怪を次の文化資源として復活させた偉人。これほど大きくて、これほど楽しくて、しかも大天狗のように賢明だった日本人は、もはや出現しないと思います》

 気取らず、ユーモア精神を忘れなかった。2003年、81歳で手塚治虫文化賞特別賞を受賞したときの贈呈式。「徹夜続きの手塚さんは早死にした。私は半分寝ぼけたような一生だったが、長生きした」とスピーチし、会場を笑わせた。

 たしかに、子どもの頃から眠ることが大好きだった。布枝さんには寝ている子どもを起こすことも禁じた。日曜日など、昼になっても誰も起きず、家の中がシーンとしていたらしい。

 屁も水木さんの得意技だった。しかも、小学生のときは芸術的な屁をかましていたそうである。「ブ」なんていう無機質で無愛想な屁ではない。学校の講堂で地元の名士を招いて紀元節などの厳かな式典が盛り上がってきたとき、「ナァプ〜ン」と。複雑な音楽のような屁だったという。

《退屈していた生徒はドッと笑う。でも先生や名士は前の方にいるから、あわてて「気をつけ」なんて号令をかけたりするけど犯人はわからない。屁の証拠を押さえるのは難しい》(朝日新聞:07年4月3日夕刊)

 そのうち水木さんが式典会場に入ってくると、「来たぞ、来たぞ」とスターみたいな扱いだったという。屁への期待。もちろん、そう簡単に屁をかますことはできないが、頑張ったそうである。

 ところで、代表キャラクターの鬼太郎が誕生したのは1950年代。蛇の腹から生まれた鬼太郎が迫害を受けた人間に復讐するという暗い設定だった。その後、週刊少年マガジンなど媒体を変えながらも「墓場の鬼太郎」シリーズが定着。人間を困らせる悪い妖怪たちを退治する“正義の味方”として描かれるようになった。

 茶碗風呂が大好きな目玉おやじや興奮すると化け猫に変身する猫娘ら、鬼太郎の仲間たちは実に魅力的だ。子泣き爺、砂かけ婆、一反木綿、ぬりかべもいる。

 水木さんが妖怪に興味を持ったきっかけの一つは「『のんのんばあ』でしょう」と、早大名誉教授(比較文学)で山陰の民間伝承に詳しい池田雅之 さんは話す。武良家に手伝いで出入りしていた景山ふささんのことだ。幼い水木さんに、たっぷり妖怪や不思議な話を語り聞かせた。

「のんのんばあを通じて、見えない世界や異界への共感力を身につけていったのです」(池田さん)

「死ぬというのはそんなに悪いことばかりではない」

「ゲゲゲの鬼太郎」のタイトルでアニメ化され、テレビ放送が始まったのは1968年。東京五輪から4年。日本の国民総生産(GNP)は、この年、米国に次ぐ世界2位になったが、高度経済成長がもたらした社会のひずみはさまざまな形で噴出した。

 国は富山のイタイイタイ病や熊本の水俣病、新潟水俣病をそれぞれ公害病と認定。狭い国土での急激な経済成長と開発は、住宅難や交通事故の急増といったきしみも生んだ。

 室町時代や江戸時代の幕末もそうだったが、先行き不透明で閉塞感が漂う時代に妖怪は人々の注目を集める。彼らは何らかの“警告”を発しているのではないか。人間の欲望や不安、ストレスなど様々な気分を吸い取って、妖怪たちは増殖した。

 それにしても、死というと誰もが恐れるが、水木さんは「死ぬというのはそんなに悪いことばかりではない」とある対談で話していた。と同時に、目に見えない何かの存在を信じていた。

 私もそう思う。文明やテクノロジーにどっぷり浸かった人間は、形のあるものしか見えず、音のするものしか聞こえない。昔の人は霊的なものを感じたり、発見したりする能力がとても強かったのだろう。

「怪談」を著した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン=1850〜1904)のひ孫で民俗学者の小泉凡さん(62)は言う。

「水木さんの作品には、独特の世界観やユーモアあふれる人生哲学が込められていた。登場する妖怪たちの大半が、民衆の心に根差した民間伝承にルーツを持っているのです。それが幾世代にもわたって親しまれ、現在の妖怪ブームとなったのではないでしょうか」

 水木さんが亡くなる5カ月ほど前、小泉さんはテレビの取材で水木さんに同行し、島根県松江市郊外にあるスダジイの神木を見に行った。「この木は600年生きている。でも人間の命は短い」。これが、水木さんから直接聞いた最後の言葉となったという。

 次回は欽ちゃんファミリーの一員として人気を集めた歌手の清水由貴子さん(1959〜2009)。静岡県の霊園で亡くなっているのが見つかったのは2009年4月21日。周囲に明るさを振りまく一方、母親の介護を続けていた彼女がなぜ49歳という若さで命を絶ったのか。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部