フジテレビが視聴率トップの座から転落してから12年。そもそもフジはどうして強かったのか? それを知る格好の番組として、複数のOBらが挙げるのが、1985年8月13日の「FNNニュースレポート11:30」である。この番組内で日航ジャンボ機墜落事故現場からの独占生中継が行われた。この生中継にフジが強かった理由が隠されているという。

日航機墜落事故を生中継

 日航機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落してから一夜明けた1985年8月13日午前11時半過ぎ、フジは昼のニュース「FNNニュースレポート11:30」で現場からの独占生中継を始めた。

 当時、フジの看板アナだった露木茂氏(81)が生中継の映像を見ながら、視聴者にこう伝えた。

「現場に生存者がいました。4人の生存者がいた模様です」

 いつも落ち着いている露木氏が興奮気味だった。無理もない。墜落した日航機の乗客・乗員524人の安否は絶望視され、列島は重苦しいムードに包まれていた。そんな中、4人の生存者が発見されたのだから。

 一方、国民全体の関心事でありながら、NHKを含めた他局は墜落現場からの生中継が出来なかった。上空の自社ヘリからの映像とリポートのみ。生存者の有無も確認できなかった。大事件・大事故の報道でここまで差が付いた例は後にも先にもない。

 墜落現場からのリポートを担当したフジの記者は山口真氏(59)。慶應大を出て入社してから、まだ5カ月目だったが、冷静なレポートに終始した。

 現場一帯には損壊された無数の遺体が横たわり、凄惨を極めていた。だが山口記者はそれを口にするのを控えた。乗客の家族の心情を第一に考えたのだろう。フジの生中継が高く評価された一因だ。

 なぜ、フジだけが生中継できたのだろう。どうして、この生中継にフジが強かった理由が隠されているのか? 順を追って書きたい。

 まず日航機が墜落したらしいという情報が各局に入った時刻は一緒。前日の8月12日午後7時13分だった。時事通信が「日航ジャンボ機がレーダーから消える」というフラッシュ(至急報)を加盟各社に配信したからだ。

 ほどなくして自衛隊機などが日航機から上がる炎を確認。墜落が確定してしまった。フジを含めた各局の取材班は夜のうちに上野村に入り、翌13日午前5時の夜明け前から墜落現場を目指して御巣鷹の尾根を登り始めた。

重たい機材を背負って険しい山を登った取材班

 この登山が困難だった。当時、あるテレビ局の学生ADだった筆者も事故から1週間後に墜落現場に入ったが、あまりに山が険しく、驚いた。

 登山道などない。廃線となった森林鉄道の枕木の上をおそるおそる歩かなくてはならない場所もあった。枕木と枕木の間の下は谷。足を滑らせ、転落したら、軽傷では済まなかった。

 全体的に山深い上、急斜面が多かった。取材陣の中から遭難者や滑落した者が相次いだのもうなずけた。麓から墜落現場に辿り着くまでには軽く3時間以上かかった。

 そのうえ各局の取材班は重たい機材を背負わなくてはならなかった。フジ以外の局は肩に担ぐ取材用ENG(エレクトリック・ニュース・ギャザリング)カメラが中心。交換用のバッテリーやビデオテープも持たなくてはならないので、1カメラあたりの機材の総重量は数十キロに達した。

 ENGカメラは運ぶのが一苦労であるだけでなく、大きな弱点があった。映像を放送で使うためには、撮影したテープを上空の自社ヘリにロープで引き上げてもらうか、スタッフの誰かがテープを持って下山しなくてはならなかった。

 ヘリにテープを引き上げてもらうのは難しいうえに危険だった。一方で下山にも最低3時間はかかった。昼に撮った映像を流すのが夕方になってしまう。

なぜ、フジだけ生中継できたのか

 ところがフジは13日午前11時半には生中継を始めた。山に登り始めたのは他局とほぼ一緒なのに。「ヘリスター方式」を使ったからだ。

 フジはまず事故現場での映像を電波に変換。上空の自社へリに飛ばした。ヘリは受け取った電波を、東京・西新宿の高層ビルにある大型アンテナに飛ばした。その電波が新宿区河田町のフジ本社(当時)に送られた。ヘリを衛星中継の衛星の代わりに使ったのである。だからヘリスター。当時としては画期的なシステムだった。

 この技術の存在はNHKを含めた他局ももちろん知っていた。だが、導入済だったのはフジのみ。万一の事件・事故に備えていたフジの考えが正しかった。

 もしかすると他局はヘリスターを導入していても御巣鷹の尾根では使わなかったかも知れない。なにしろ機材が途方もなく重いのだ。ENGカメラとは比較にならない。1カメラあたりの重量は軽く計100キロ以上と言われた。

 けれどフジでは墜落現場にヘリスター機材を持っていくことがすぐに決まった。フジOBによると、当時の制作技術局制作技術センターの幹部が、「持っていったらどうか」と提案。取材班の面々は一も二もなく賛同した。誰一人として難色を示さなかった。

 それまでにヘリスターが山間部で使われたことはなかったから、提案した技術センター幹部は発想が柔軟だった。機材が恐ろしいまでに重いことを知りながら、すぐに提案を受け入れた取材班はバイタリティに満ちていた。

社内が柔軟性とイケイケ精神に満ちていた

 このエピソードには全盛期のフジの精神が凝縮されている。やわらか頭で姿勢はイケイケだった。

 報道局ばかりではない。「森田一義アワー 笑っていいとも!」(1982年〜2014年)など先鋭的な番組をつくっていたバラエティ部門もフレキシブルでポジティブ。斉藤由貴(55)主演の「スケバン刑事」(1985年)など遊び心に富んだ作品を制作していたドラマ部門もそうだった。

 当時の他局は官僚的だったり、セクショナリズムが強かったり。フジとは違った。TBSは視聴率でフジに負けたことが悔しくて仕方なかったらしく、「ウチは『視聴質(視聴者の質)』はいい」などと言い出した。

 同8月13日午後1時過ぎ、生存者4人は陸上自衛隊空挺団のV-107輸送ヘリによって救助された。1人ずつ空挺団員に抱えられ、ヘリに収容された。この劇的な様子もフジだけが生中継した。他局は惨敗だった。

 当時の日本テレビの編成部幹部で後に経営陣の1人になった同局OBは、フジの生存者救出の生中継を観て、「当面は何をやってもフジには勝てないかも知れないな」と青ざめたという。

 フジはこの3年前の1982年から視聴率年間3冠王だったが、それでも日テレは1970年代まで下位局だったフジを舐めていた。

「すぐに巻き返せると考えていた」(元日テレ経営陣)。

 けれど生存者救出の生中継を目の当たりにしてフジへの見方が一変した。テレビマンだから、険しい山間からの生中継がいかに難しいかがよく分かっていた。フジの積極性と力強さに圧倒された。

「とんでもない体質の会社なんだと初めて分かった」(同・元日テレ経営陣)

 元日テレ経営陣の予感は的中し、フジの3冠王は1993年まで続く。その後も2010年まで年間視聴率は3冠王か2位だった。

 日テレがフジの生中継に打ちのめされた同8月13日午後、同局内で珍しい事が起きた。報道局が編成部に対し、「報道特番を打ち切って欲しい」と申し入れたのだ。
「報道局は大事件や大事故があると、『特番の放送枠をもっと伸ばしてくれ』と言うのが常なんですが、あの日はどうしたってフジに勝てないので、戦意を喪失した」(元日テレ経営陣)

新聞界も脱帽、より自信を付けたフジ

 フジに惨敗したことを痛感させられたのは他局だけではない。フジの生存者救出の生中継は1985年度の新聞協会賞(編集部門)を受賞した。つまり「この年の報道の1等賞」と認定されたのである。

 NHKも受賞したことがなく、テレビ局が得るのは初めてだった。それまでテレビ界を見下していた新聞界が負けを認めたのだ。

 同9月20日付の毎日新聞夕刊は「グリコ犯 森永製菓も脅迫」という歴史的スクープを報じたが、それよりフジの生中継のほうが、価値があると判断された。

 前出・フジOBは振り返る。

「テレビ界で初の新聞協会賞受賞で局内は沸いた。局内全体が活気づいた」(フジOB)

 当時のフジが強かったから出来た生中継だったが、一方で生中継の成功によって強いフジがますます勢いづいたのである。

 生中継成功は決してフロックではない。ヘリスターがあったからだけでもない。事故当日の同8月12日夜、民放で真っ先に報道特番を開始したのもフジ。午後7時台だった。

 民放が通常番組から特番に移行するのは簡単ではない。通常番組の全てのスポンサーに許可を取らなくてはならないからだ。だが、フジは緊急事態であると判断し、許可取りを飛ばして、特番にゴーサインを出した。当時のフジは社内全体が柔軟でイケイケだったのだ。

 あの夏、現場からのレポートを行ったフジの山口記者は昨年まで報道局長を務めていた。新人記者が報道局のトップになった。歳月の流れを感じさせる。

 フジの行方を左右するのはマンパワーに違いない。全盛期のマインドを取り戻せるか。それがトップ奪還のカギになるはずだ。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部