8月24日、劇団ひとりの12年ぶりの書き下ろし小説「浅草ルンタッタ」(幻冬舎)が発売された。明治・大正期の浅草を舞台に、懸命に生きる人々の姿が描かれている。

 劇団ひとりは2021年に配信開始された映画「浅草キッド」(Netflix)の監督・脚本を務めたことでも話題になった。「浅草キッド」はビートたけしが自身の浅草での下積み時代を描いた著書を原作とする作品である。「浅草キッド」と「浅草ルンタッタ」は、浅草を舞台にしているという共通点があるが、作品に対する意識は少し異なっている。

 一言で言えば、「浅草キッド」は劇団ひとりがどうしても撮らなければいけない作品だった。たけしの熱烈なファンである彼は、これを撮らなければ次に進めないと思っていたのだ。

期待と不安が半々だったが…

 そんな彼が「浅草キッド」の監督を務めるという話を最初に聞いたとき、個人的には期待と不安が半々だった。もちろん劇団ひとり流の「たけし愛」が詰まった興味深い作品になることは予想できていたのだが、行き過ぎた愛情は客観的な目線を失わせることがある。悪い意味で、間口の狭い「同人誌」的な作品になってしまう可能性もあるのではないかと勝手に心配していたのだ。

 いざ蓋を開けてみると、映画「浅草キッド」は文句なしの傑作だった。原作では、大学を中退して放浪生活を送っていたビートたけしが、浅草のフランス座で師匠の深見千三郎に出会い、そこで修業を積み、漫才師として独り立ちするまでが描かれている。映画では、そんな彼らの師弟関係を軸にして物語が展開される。

 誤解を恐れずに言うと、映画版の「浅草キッド」は、ビートたけしを題材にしたアイドル映画ではないかと思った。

 映画の世界ではアイドル映画というジャンルがある。私の理解では、一般的な映画では「作品が主、役者が従」という関係があるのに対して、アイドル映画ではこれが逆転する。アイドル映画は、主演のアイドルを魅力的に見せるためだけに存在する。

「浅草キッド」では、役者本人ではなく、主題としての「ビートたけし」という存在そのものが絶対的なアイドルとして作品の中心に鎮座しており、作品や役者はそれを引き立たせるための存在となっている。

 しかし、「浅草キッド」は、私が勝手に危惧していたような独りよがりの作品ではなかった。劇団ひとりはもともとクリエイター気質の芸人である。彼のコントやパフォーマンスと同じように、細部まで丁寧に作り込まれているので、物語の世界に安心して没入できる。

 当時の浅草のレトロな雰囲気も忠実に再現されているし、たけしが師匠から習ったタップを踏んだりする見せ場もある。アイドル映画にはそのアイドルを美しく見せるための場面があるものだが、「浅草キッド」でもそれがきちんと用意されているのだ。

古き良き芸人の美学

 また、第一線で活躍する現役の芸人が監督を務めているだけあって、作中に出てくる漫才のネタや、芸人同士の軽妙なやり取りが、きちんと面白いものに仕上がっていたのも良かった。これは、一見どうでもいいことのようだが、この作品にとっては重要である。

 なぜなら、ビートたけしという人物や彼の師匠との関係を描く上で、それらの場面が欠かせないものだからだ。作中で「面白い」とされていることが実際には笑えないのでは、見る側は興ざめしてしまう。この作品では、そのような物足りなさを感じることがなかった。

 芸人同士のやり取りに余分な言葉は要らない。たけしと深見は「笑い」という共通言語で会話をする。芸人の師弟関係とはそういうものであるということをこの作品は教えてくれる。

 たけしと深見には「照れ」と「やせ我慢」の美学がある。彼らは人前で本心を大っぴらに語ろうとはしない。でも、そんな古き良き芸人の美学に憧れる現代の芸人である劇団ひとり監督は、あえてまっすぐに彼らの生き様を美しく描いてみせた。その思い切りの良さが、この作品を間口の広いエンターテインメントにしている。

「浅草キッド」は、ビートたけしという史上最高のアイドル芸人の魅力を余すことなく伝えてくれる、アイドル映画の傑作だった。

「浅草ルンタッタ」はオリジナル作

 一方、「浅草ルンタッタ」は、かつて歓楽街として栄えた浅草に存在した「浅草オペラ」というものを知った劇団ひとりが、それを軸にして組み立てたオリジナルな物語である。たけしファンである自分にとって憧れの地である浅草を舞台にしているものの、話の中身は自らの手によるものだ。

「浅草キッド」を撮ることでクリエイターとしての通過儀礼を終えた劇団ひとりが、新しい境地に一歩踏み出した記念碑的な作品である。ここからの彼は、「ビートたけし」でもなく「浅草」でもない、新しい物語をどんどん紡ぎ出してくれるだろう。

デイリー新潮編集部