NHK大河ドラマ『どうする家康』で、しばらく前から豊臣秀吉(ムロツヨシ)の近くにいつも侍っている男がいる。秀吉の弟、佐藤隆太が演じる豊臣秀長である。佐藤がよりによってビッグモーターのイメージキャラクターを務めていたために、なんとなく胡散臭い雰囲気が漂うのが気の毒だが、史実ではむしろ、胡散臭い秀吉を牽制する良心的な人物として鳴らしていた。
第36回「於愛日記」では、徳川家康(松本潤)に、自分がすでに病気に冒されており、先が長くない旨を告げていた。歴史に「もしも」を持ち込むとキリがないが、もし秀長が長生きしていれば、豊臣政権はもっと長持ちしたのではないか、と見る向きは多い。
というのも、いつも秀吉をサポートし、その行動をチェックしては、行きすぎだと思えばブレーキをかける役が秀長だったのだが、秀長が早すぎる死を迎えて以後、秀吉の暴走に歯止めがかからなくなるのである。
九州の大名の大友宗麟が天正13年(1585)、秀吉に助けを求めた際、秀吉は手厚くもてなしたうえで、「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相に存じ候、いよいよ申し断ずべし」と指示したという(『大友家文書禄』)。「宗易」は千利休、「宰相」は秀長のことで、「公儀の事」とは政治がらみのこと。この秀吉の言い方から、秀長が秀吉からお墨付きをもらい、大名を統制するトップにいたことがわかる。
ちなみに、千利休もたんなる茶道家ではなく、茶道をとおして広い人脈を誇り、秀吉の家臣団をうまく回す役割を果たしていた。そして、内政面の実質的なことに関しては、秀長がサポートしていた。近くに秀長と利休がいて、秀吉の家臣団はバランスがとれていたのである。
秀吉の右腕として常に戦果を挙げた
生まれは天文9年(1540)だから、天文6年生まれの秀吉より3歳年下で、母は秀吉の生母の仲(のちの大政所)だが、父は秀吉の父の弥右衛門か、その死後に仲が再婚した竹阿弥なのかわかっていない。いずれにせよ、尾張国(愛知県西部)の中村(名古屋市中村区)に、百姓の子として生まれたと考えられる。
名は小一郎で、10代前半で家を飛び出した兄の秀吉が織田家に仕官してから、武士になる決意をしたといわれる。以後、秀吉の補佐役として、数々の合戦に従軍しながら兄を助けてきた。天正元年(1573)に秀吉が織田信長から、滅亡した浅井氏の旧領を与えられて、琵琶湖畔に長浜城を築くと、その城代を務めたりもした。
天正2年(1574)には、秀吉の代理として長島一向一揆の討伐に出陣し、丹羽長秀や前田利家らとともに戦った。天正4年(1576)には、のちに秀吉に仕え、さらには家康の腹心になり、数々の城の設計に携わったことでも知られる藤堂高虎が、秀長に仕官している。その後、天正5年(1577)と同8年(1580)の2度におよんだ但馬(兵庫県北部)攻めでは総大将を務め、秀吉との見事な連携で勝利を呼び込んだ。
天正10年(1582)の本能寺の変で信長が討たれたのちは、むろん明智光秀を倒した山崎の戦いや、翌年の柴田勝家との賤ケ岳の戦い、同12年(1584)に徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いにも参戦。秀吉の天下獲りへの道のりを支え、天正13年(1585)の紀州(和歌山県)攻めでは秀吉の副将を、同年6月の四国攻めでは病気の秀吉に代わって、総勢10万の軍勢の総大将を務めている。さらに、天正15年(1587)の九州攻めでも、日向(宮崎県)方面の総大将として先鋒を務めた。
これからというときに病没
その間、秀長の献身に感謝する秀吉から、少しずつ領土を与えられた。天正13年に紀州を制圧したのちには、紀伊(和歌山県)や和泉(大阪府南西部)などに64万石の所領を与えられ、同14年には四国攻めの功績を評価されて大和(奈良県)を加増され、石高の合計は110万石に達した。そして、大和郡山城(奈良県大和郡山市)に入り、100万石の大名の居城にふさわしい規模に改修した。
官位もどんどん上昇。天正13年(1585)10月に従四位下参議に任ぜられると、同14年(1586)10月には従三位権中納言、同15年(1587)8月には、徳川家康と同時に従二位権大納言に昇進。以後、大和大納言と呼ばれた。
『どうする家康』では、秀吉への臣従を決意した家康が大坂に到着した際、秀長の屋敷に宿泊すると、そこに翌日謁見する予定の秀吉が予告なしに現れた場面が描かれた。これは実際、家康の家臣の松平家忠が書き残した『家忠日記』や『徳川実紀』にも記されているエピソードである。
ところが、秀長はそのころから体調を崩すようになるのである。『多聞院日記』などによると、天正14年(1586)ごろから、有馬温泉(神戸市北区)などにたびたび湯治に通ったことが記されている。天正18年(1590)からは病気がかなり悪化し、3月からの小田原攻めに参加できなかった。そして同19年(1591)1月22日、大和郡山城内で病没した。享年52。不安定な東北を除けば天下が平定され、ここからこそ秀長の手腕が必要とされる、というタイミングだった。
家督は秀吉の姉の子(秀次の弟)で、秀長の養子になっていた秀保が継いだが、4年後の文禄4年(1595)4月、秀保がわずか17歳で没したため、断絶してしまう。
恐るべき秀次事件も防げたはず
秀長のサポートなしに、秀吉は天下を取ることができただろうか。むろん、明確な回答を導くことは不可能だが、秀長におおいに助けられ、秀長のおかげで大名たちを取りまとめることができていたのはまちがいない。
事実、秀長の没後、秀吉の暴走は止まらなくなった。秀長が没して1カ月後の天正19年(1591)2月28日には、秀長と並んで家臣団の取りまとめ役だった千利休を切腹させ、文禄元年(1592)に朝鮮出兵を断行。同4年(1595)には秀次事件を起こしている。
天正19年(1591)9月、側室の淀殿が産んだ嫡男の鶴松が死去すると、秀吉は姉の子の秀次を後継者にすると決め、同年12月に関白職を譲った。ところが、文禄2年(1593)8月に淀殿が拾(のちの秀頼)を産むと、秀吉にとって秀次の存在は、にわかに邪魔になっていく。そして文禄4年(1595)6月末、謀反の疑いが持ち上がった秀次は切腹に追い込まれ、さらには秀次の子供と正室、側室、侍女、乳母の計39人が斬首された。また、7人の家老も切腹を命じられた。
この秀次事件は、ただでさえ少ない豊臣一族の数を減らしたうえ、大名たちのあいだに動揺を生んだ。秀次と関係が深い大名が秀吉の不興を買うなどし、豊臣家臣団のバランスが崩れ、家康がつけ込む余地ができたことは疑いない。
秀長は秀次との関係が良好で、秀次が小牧・長久手の戦いでの失態を秀吉から叱責されると、のちの従軍で秀長を助けて秀吉の信頼を取り戻す力添えをした。だから、秀次は秀長が亡くなる少し前に談山神社(奈良県桜井市)を訪れ、病気回復を祈願している。
秀長が長生きしていれば、秀次事件は起きなかったのではないだろうか。秀長がそのように力を働かせれば、結果的に、秀吉にとっては好都合だったはずである。ただし、家康にとっては不都合だっただろう。
香原斗志(かはらとし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史を中心に幅広く執筆するが、ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論家としても知られる。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』など。
デイリー新潮編集部