今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』は、例年になくラブシーンが多い。主人公の藤原道長(柄本佑)とまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)も何度か見せた。そして第16回「華の影」(4月21日放送)では、一条天皇(塩野瑛久)と中宮の定子(高畑充希)のラブシーンが展開した。

 一条天皇の定子への思いには熱いものがあったと、史料でも伝えられている。今回描かれたのは、褥において一条天皇が、定子の目を見つめながら頬に手を触れ、笑みを浮かべる定子と額を寄せ合い、口づけを交わそうとする場面だった。だが、残念ながら、そこに天皇の秘書官長である蔵人頭の源俊賢(本田大輔)が駆けつけ、「ただいま弘徽殿より火の手が上がりました。急ぎここよりお移りいただきたく」と告げるのだった。

 じつは、ラブシーンは、平安時代を忠実に描くためには、避けて通れないともいえる。木村朗子氏は「藤原氏の政権とは学問の叡智に頼らず、性愛によって天皇をとりこめていく政治体制であり、それがとりもなおさず摂関政治の内実なのである」と書く(『紫式部と男たち』文春新書)。例年の大河ドラマの策略や戦争の場面に当たるのがラブシーン、といえなくもないのである。

 もっとも、「性愛によって天皇をとりこめていく」ことが、いつもうまくいくとはかぎらない。たとえば、一条天皇の母である詮子(吉田羊)は円融天皇(坂東巳之助)のもとに入内して一条を産んだが、天皇に愛されることはなかった。それにくらべ、一条天皇と、藤原道隆(井浦新)が入内させた娘の定子との関係は、非常によかった。

 だが、関白になった道隆が、あまりに強引な身内びいきを進めた影響もあり、定子の幸福が長く続くことはなかった。

父のお膳立てで頂点を極めたが

 定子が4歳年下の一条天皇のもとに入内したのは、正暦元年(990)正月、15歳のときのことで、その年のうちに父の道隆は彼女を中宮、つまり一条天皇の正妻にした。天皇の妻が中宮になることを「立后」というが、この場合、道隆はそれをかなり強引に行っている。

 后の位には皇后、皇太后、太皇太后の三つがあって「三后」と呼ばれた。一般には、それぞれ順に、今上天皇の正妻、前の天皇の正妻、その前の天皇の正妻を指すが、天皇が代わると后も代わる、という決まりはなかったので、少々ややこしい。つまり、3人のうちのだれかが亡くならないかぎり空席が出ない仕組みで、このときは一条天皇には正妻がいなかったものの、三后には空席がなかったのだ。

 当時、「中宮」とは皇后、もしくは三后の別称で、道隆はそこに目をつけた。つまり、別称である「中宮」を、あたらしい后の枠として定め、定子をその座に就けたのである。

 むろん、道隆のこうした強引さに周囲は不満を募らせたが、道隆が関白として政権を牛耳っているうちは、だれもが従うほかなかった。一条天皇と定子は、相思相愛だったようだから、道隆の栄華のもとで二人の関係も安定した。しかし、いったん道隆になにか不都合が生じれば、非常識な身内びいきを重ねたツケとして、その身内は凋落しかねない、ということでもあった。

 そのときは、かなり早く訪れた。元来が大酒のみの道隆は、飲水病、つまり現代でいう糖尿病の持病を抱えていた。そこに疫病が大流行した。これは疱瘡、つまり天然痘で、都の人口の半分が失われたとも伝わる。第16回「華の影」では、疫病対策の必要性を訴える道長らの申し出を、道隆がいっさい無視する様子が描かれたが、結局は、道隆自身が疱瘡に感染し、長徳元年(995)4月10日、死去してしまうのである。

 死を前にして道隆は、ドラマでは三浦翔平が演じる長男の伊周を、自分の後継にしようと画策するが、一条天皇が受け入れなかった。これは道隆の専横を快く思っていなかった妹の詮子の意思が働いたものと考えられる。

父の死後に定子を襲った不幸の連鎖

 結局、ドラマで玉置玲央が演じている道兼が関白の座に就くが、彼もすぐに同じ疫病で死去してしまい、いよいよ道長の時代が到来する。そして、定子は道長によって、徹底的にいじめられることになる。

 道長は、天皇に奏上する文書を前もって読む役である内覧となり、さらに道隆の長男の伊周よりも上位の右大臣に任じられた。とはいえ、伊周もその弟の隆家も健在で、そのうえ一条天皇と定子の関係は円満だったから、道長の権力はまだまだ盤石といえる状態ではなかった。

 実際、伊周や隆家は道長との反目を強めていたが、この2人は長徳2年(996)、自滅してしまった。2人は花山法皇と闘乱騒ぎを起こし、法皇を射かけるわ、その従者を殺害するわで、それぞれ太宰権帥、出雲権守に流されてしまったのである(長徳の変)。

 その少し前から、定子をめぐる環境は厳しくなりつつあった。一条天皇の子を懐妊し、内裏から実家である二条宮に帰るときには、公卿たちは道長に遠慮して、だれもお供の行列に参加しなかった。また、2人の弟が長徳の変を起こしながら左遷を拒んだ際は、弟たちをかくまった結果、二条宮を強制捜査されている。そして、その責任をとろうとしたのだと思われるが、「捜査」の当日である長徳2年(996)5月1日、みずから出家した。ただし、妊娠したままの出家であった。

 その年の夏には二条宮が全焼し、10月には母の貴子が没するなど、立て続けに不幸に見舞われたが、定子にとってはせめてもの救いだっただろうか、一条天皇の寵愛だけは変わらなかった。そして12月16日に、第一子である脩子を出産している。

家同士の争いに翻弄された犠牲者

 翌長徳3年(997)6月に一条天皇は、変わらずに寵愛する定子を、三后に関する事務を執り行う職曹司に戻している。当時、出家したはずなのに宮中に戻った定子と、彼女をこうして寵愛し続ける一条天皇への批判が強かったことは、藤原実資の日記『小右記』の記述からもわかる。そして、一条と定子の関係は、道長にとっては焦りにつながった。定子から皇子が生まれたら、権力基盤が揺さぶられかねないからである。

 長保元年(999)、定子がふたたび懐妊し、竹三条宮に退出することになると、道長は同じ日に宇治への遊覧を企画して公卿たちを呼び、彼らが定子のお供をしないように妨害している。さらには、道長はまだ12歳にすぎない長女の彰子の入内を急ぎ、11月1日に一条天皇のもとへ入内させた。7日には彰子を女御にするという宣旨が下っている。

 だが、折しも同じ11月7日、定子は待望の第一皇子である敦康親王を出産した。これによって、道長の焦りは倍加しただろう。そこで、道長はとんでもない奇策を思いつき、強引に実現させた。兄の道隆は、中宮が皇后の別称であることを利用し、ほかに皇后がいるのに定子を中宮にした。とはいえ、皇后と中宮は別の天皇の后だった。ところが、道長は同じ一条天皇のもとに皇后と中宮を置く「一帝一后」を実現させてしまった。

 その後も、一条天皇は定子を寵愛したが、長保2年(1000)12月、第二皇女の媄子を出産した定子は、後産が下りずに亡くなってしまう。わずか24歳だった。しかし、悲しみを隠そうとしない一条天皇に参内を求められても、道長は参内しなかった。

 その後、定子が産んだ敦康親王は、中宮彰子が養育したものの、寛弘5年(1008)、その彰子が敦成親王を出産したのちは、道長は第一皇子であるにもかかわらず敦康親王をぞんざいに扱うようになった。結局、第一皇子としてはきわめて例外的に、皇位継承権も奪われてしまう。

 定子は道長の姪だった。親族だったのである。しかし、この時代、狭い親族間での権力争いが、熾烈に繰り広げられた。 それに敗れた中関白家(道隆の血統)は、以前、道長と敵対した反動もあり、徹底して嫌われることになった。それにしても、家の隆盛のために利用され、翻弄された挙句、24歳で命を落とした定子は、『ロミオとジュリエット』のジュリエットにも擬せられる犠牲者ということもできるだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部