5月22日、静岡地方裁判所で開かれた袴田事件の再審裁判で、検察は袴田巖さんに死刑を求刑した。昨年、3月東京高等裁判所で再審開始決定が出され、喜びに包まれた巖さんや姉のひで子さんはどのような思いで今回の死刑求刑を受け止めているのだろうか。再審開始が決まった当時の様子をお伝えする。

(デイリー新潮 2023年3月19日配信の記事をもとに加筆・修正しました。日付や年齢、肩書などは当時のまま)

 3月13日、東京高等裁判所の第2次請求審で「袴田事件」の再審開始決定が出された。1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社の専務一家4人が殺された事件で、強盗殺人罪により死刑囚となった元プロボクサーの袴田巖さん(87)と姉のひで子さん(90)の戦いを追った連載「袴田事件と世界一の姉」の31回目。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

姉・ひで子さんの涙

 少しだけ「嫌な予感」も脳裏をよぎらせていた雨が、この瞬間を祝福するかのように直前に晴れ上がった。

 3月13日午後2時過ぎ、弁護団の西澤美和子、戸舘圭之両弁護士が東京高裁の庁舎から正門へと走ってきた。押し寄せた報道カメラに向けて〈再審開始〉〈検察の抗告棄却〉と書かれた垂れ幕を誇らしげに掲げた。

 東京高裁の大善文男裁判長は「元被告人を犯人と認定することはできない」として検察の抗告を棄却し、再審開始を決定した。再審開始決定は2014年3月の静岡地裁(村山浩昭裁判長)以来9年ぶりだった。

 まもなく茶封筒を持った巖さんの姉のひで子さんと弁護団の小川秀世事務局長(70)、笹森学弁護士(69)らが歓声の中、満面笑みで登場。ひで子さんは「ありがとうございます。遂に来ました。57年間待っておりました。皆様のおかげです。本当に嬉しゅうございます」などと涙顔で話した。気丈な女性と思っていたひで子さんの涙を、この日初めて見た。9年前の静岡地裁の決定の際にも、ひで子さんは泣かなかったそうだ。

「涙もろい人」と支援者に言われる小川事務局長は「よかった。嬉しい。これで絶対に終わらせます」と語りながらも、涙が止まらない。小川弁護士は40年以上、弁護団として戦ってきた。

 この日、巖さんは上京せず、静岡県浜松市の自宅に「見守り隊」(猪野待子隊長)の人たちと残っていた。日課のドライブの途中で立ち寄った神社で報道陣に囲まれ、「勝つ日だと思うね」と答えたという。

巖さんに「具体的なことは言いません」

 日本弁護士連合会で記者会見を行ったひで子さんは「本当に嬉しい。(死刑が確定した)1980年の最高裁の判決の時はみんなが敵に見えた。その気持ちが日弁連など多くの人の支援で薄れていきました。抗告があるかもしれませんが頑張っていきます」と力強く語った。

 質疑で巖さんへの報告を訊かれると「具体的なことは言いません。『いいことがあったよ。安心しな』とだけ言います」などと話した。この日、ひで子さんは巖さんに目的を明かさず、「東京に行ってくる」とだけ言って出てきていた。

 死刑執行の恐怖に耐えながらの半世紀近い拘置所生活で、巖さんには拘禁症の影響が強く残り、発言の意味が通らないことが多い。ひで子さんは、これまでの筆者の取材に「巖を表に出すことを恥ずかしいなどとは思わない。冤罪で人間がこんなことになることを世に見せるのが、せめてもの国へのリベンジですよ」と話している。

 筆者が「ひで子さんはよく『国は巖が死ぬのを待ってるんですよ』と語っていましたが、今日はどんな風に受け止めていますか?」と訊くと、ちょっと聴き取りにくい様子で「すごく喜んでいますよ。今まで再審開始と思ったら棄却されたりでしたので、私も度胸が据わってきました。抗告されようが、とにかく頑張っていくつもりです」と答えた。

血痕の色味の変化を実験

 再審請求を巡る裁判の経緯を改めて振り返ろう。

 巖さんは14年3月に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始を決定して釈放された。しかし、18年6月に検察の抗告で東京高裁(大島隆明裁判長)が決定を取り消す。

 20年12月に最高裁(林道晴裁判長)が「高裁の取り消しの決定」を取り消し、「5点の衣類の色調変化の化学的機序の検討」という“宿題”を課して高裁に差し戻した。

 この「5点の衣類」は、事件から1年2カ月経った1967年8月31日に味噌タンクから「発見」され、警察が犯行時の着衣とした。しかし、1年以上も味噌タンクの中にあったにもかかわらず、衣類に付着した血痕の色は赤かった。弁護側は、血痕が黒ずんでおらず、発見直前に放り込まれた可能性があること、前年の8月に既に逮捕されていた巖さんにはそれができないことから、捜査側の捏造と主張していた。

 今回の高裁の「大善決定」を要約すると、5点の衣類について下記のように認めた。

(1)犯行時の着衣の血痕の色調変化に関する弁護側の実験や鑑定書は信用できる
(2)弁護側の衣類の味噌漬け実験の結果は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」に該当し、袴田巖元被告を犯人とした確定判決に合理的な疑いが生じる
(3)犯行時の着衣は捜査機関が事実上、捏造した可能性が極めて高い
(4)再審開始として死刑と拘置の執行を停止した静岡地裁決定を支持する

 巖さんを40年以上支援する「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」(楳田民夫代表)の山崎俊樹事務局長(69)が血痕の色の変化を確かめるために20年かけて実施してきた「味噌漬け実験」が司法の場で評価されたのだ。これだけ重要な裁判で一市民の実験を裁判所が評価するのは聞いたことがない。

 山崎事務局長は「素人の実験を認めてくださりありがたい。味噌に漬けた血痕がどうなるかという研究などをした専門家はいないので、私たちの実験が唯一無二だったからでしょう」と謙遜気味に話していた。

 検察側も味噌漬け実験を行っていたが、結果を記録する際には白熱灯で照らして撮影したため血痕はあまり黒ずんでおらず、赤みが残っているように見えた。しかし、大善裁判長が静岡地検に行き、検察実験の結果を直接確かめたことで、写真の色味の不自然さが明らかになった。

 間光洋弁護士は「裁判官が直接見てくれなかったら検察写真でごまかされたかもしれない」と振り返る。書面審理、法廷審理に追われる中、自ら行動を起こしてくれる裁判官は稀有なのだ。

 小川弁護士は「今回は裁判官にとても温かみを感じました。巖さんにも直接会ってくれました。また、ひで子さんが高齢なことを理由に、浜松の村松奈緒美弁護士も保佐人、申立人として認めてくれた。こんなことは異例です」と評価していた。

 とはいえ、9年前の村山裁判官の再審開始決定と比べると、今回は最高裁の差し戻し審であり、「最高裁に抗って」決定を出すということではなかった。その意味では開始決定を出すハードルは村山決定より低かったかもしれない。

再び見せた涙

 再審開始決定の翌日、ひで子さんは参議院議員会館で開かれた弁護団の報告集会に参加した。「袴田巖死刑囚救援議員連盟」の塩谷立会長はじめ、鈴木宗男さんと娘の貴子さん、福島みずほさんら国会議員らが次々と挨拶した。

 ひで子さんは「巖にはまだ決定のことは言ってません。『再審開始になったよ』と言ってもわからないでしょうから、『すごくいいことがあったよ』と伝えます。本当にありがとうございました」と再び声を詰まらせた。

 過去に再審で無罪となった人や支援者らも続々と発言した。

「布川事件」の冤罪被害者・桜井昌司さん(76)は「「昨日はひで子さんが出てきて皆さんに嬉しそうに挨拶しているの見て、本当によかった。よく見たら泣いているんですよね。でも私は腹が立っている。なんでこんなに長いんですか。再審開始のハードルを下げるとかいうことを検察が言っているとか聞きますが、そんなことは検察が決めることではなく国民が決めること。あの人たちが司法を動かしているように言うのは大間違い。常識があれば真空パックなどにしますか」と憤った。

 真空パックというのは、検察側の不自然な実験条件のことだ。何とか赤みを残そうとした検察は、血液を付けた布を脱酵素材で真空にした味噌容器に入れ、実際に「5点の衣類」が発見された味噌タンクとはかけ離れた条件を設定していた。

 大阪市東住吉区の女児焼死事件の犯人とされ、のちに無罪となった青木惠子さん(59)は「私は2014年に獄中(のテレビ)で巖さんの釈放を見ました。無期懲役の私には死刑囚の袴田さんの辛さはわからないけど、私も(無罪の決め手は)再現実験でした。仲間が勝つことは本当に嬉しい」などと語った。

 痴漢冤罪がテーマの映画「それでもボクはやってない」(2007年)で知られる映画監督の周防正行さんも登場した。

「袴田事件は、そもそも捜査に著しく違法性があり、取り調べでの違法性は明らか。(現在でも、取り調べの)録音・録画は裁判員裁判や検察の独自捜査などに対象が限定されている。録音・録画を行っても違法な取り調べが何件もあり、弁護士の立会の法制化など見直しを進めるべき」(周防さん)

「日本プロボクシング協会 袴田巖支援委員会」の新田渉世委員長は「決定のパンチで検察をロープ際まで追い詰めた。立ち上がって来るかもしれないが完全にノックアウトしましょう」と拳を握った。

どうして検察は会見しないのか

 前後するが、弁護士会館での会見の質疑で「こういう時、弁護士ばかりが会見していますけど、どうして検察は記者会見に出てこないんですか?」と問題提起した大柄な男性がいた。

 この男性は市川次郎さん(57)。プロボクシングヘビー級の草分けで、引退後、「日本プロボクシング協会 袴田巖支援委員会」のもと熱心に支援活動をしてきた。

 どんな時でも検察庁は次席検事のコメントを出すだけだ。今回も山元裕史・東京高検次席の「検察官の主張が認められなかったことは遺憾。決定の内容を精査し、適切に対処したい」とコメントを出したけだ。

「公益の代表者」を自認する検察は、なぜこんな時ですら表に出で会見せず、紙切れ1枚にもならない短いコメントで済ませるのか。市川さんの質問は、マスコミが「当然」と思っていることに対して、改めて重要な問題提起をしてくれたのだ。

喜びは見せなかった巖さん

 16日、浜松市にいるひで子さんに電話し、巖さんとのやりとりを尋ねた。

「『東京でいいことあったんだよ』と伝えましたけどね。巖はほとんど反応がなく、ポカンとしていて喜びもないような顔で何も言わなかったですよ。それでも新聞の一面に袴田事件が出ているからそれをじっと見ました。自分のことが書いてあるということだけはわかっているんですけど、それについて何か言ったりはしませんし、私から感想を訊いたりもしませんでした」

 こんなメルクマールな時でも、マスコミなど周囲が巖さんの反応を期待しているからといって、それに合わせて弟に演出させたり、発言を求めたりは決してしない。

 その理由について、「47年間も監獄で不自由だったのだから、巖の好きなように生きさせてやりたい」と語る。

 これこそが「世界一の姉」たる所以である。そして改めて再審決定を受けて、初めて流した涙のことを問うてみた。

「2014年の村山さんの決定の時はね、支援者の皆さんみんなが泣いていたけど、私はもう嬉しくて嬉しくて、ずっとニコニコしていましたよ。巖が出てきたのは決定が出た少し後だったから、思わぬ巖の釈放で涙どころではなかった、というわけではないんですよ。でも今回は泣いてしまいましたね。あれからも10年近く経ったから、私も歳を取ってしまって涙腺が緩くなってしまったんですよ。きっと」と、電話の向こうでコロコロと笑いながら語ってくれた。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。