日本の公安警察は、アメリカのCIAやFBIのように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を17年務め、数年前に退職。この9月『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、ある駐日大使のトラブルについて聞いた。

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「郷に入っては郷に従え」ということわざがある。新しい土地に来たら、その土地の習慣に従うのが良いという意味だが、自国の常識をそのまま海外に持ち込むと、思わぬトラブルを招くことがある。

「ヨーロッパのある国の駐日大使は、かなりの愛犬家でした」

 と語るのは、勝丸氏。かつて、公安外事1課の公館連絡担当班に勤務した同氏は、大使館や総領事館との連絡・調整が主な任務だったため、日頃から外交官と接触していた。

「その大使がある朝、大使公邸で飼っている中型犬を連れて散歩に出かけました。そして近所の公園で犬のリードを外して遊ばせていたところ、近くにいた高齢の日本人男性に犬がじゃれついて、男性を転倒させてしまったのです」

「痛いじゃないか」

 もちろん、大使は「ごめんなさい」と詫びたが、

「それでも男性は顔をしかめ、『痛いじゃないか』と大使に食ってかかったのです。日本語がほとんどわからなかった大使は、男性の剣幕に驚いたようで『ちょっと待ちなさい』という男性を無視して、逃げるように立ち去ってしまったのです」

 男性は、痛む足をひきずりながら大使の後を追ったという。

「男性は、大使が犬を連れて大使館と隣接する大使公邸に入って行くのを見たそうです。その後、彼は病院で診察を受けたところ、打撲と診断されたと言います」

 男性は、泣き寝入りせず、近くの警察署に相談した。

「被害状況を聞き取った警察官は、彼が話す人相風体からあの大使に間違いないと考えたそうです。外交官がらみの事案なので、当時、私がいた公館連絡担当班に連絡を入れたのです」

 警察官から連絡を受けた勝丸氏は、このまま放っておくと大事になると考えたという。

「大使の国など西欧のいくつかの国では、リードをつけずに飼い犬を散歩させるのが一般的です。犬は成犬になる前に教室に通わせてしつけをするのが常識です。人にじゃれたりしないので、リードで繋ぐのは公共交通機関に乗せる時だけです」

 ところが日本では、犬の散歩の際にリードをつけるのは常識。リードを外して遊ばせ、他人に怪我を負わせると、飼い主は刑事、民事の責任を問われることもある。東京都条例では、リードの装着を義務付けられており、違反すると拘留または科料に処される可能性がある。

ヴィクティム・リポート

「リードを外したことに加えて、怪我をさせたのに救護措置をとらず逃げてしまったのは悪質と見なされます。大使は怪我をさせたとは思わなかったと言うかもしれませんが、そんな言い訳は通用しません」

 被害者の男性は、場合によっては被害届を出すと言い出していた。

「そうなれば大使は被疑者となり、警察は出頭要請をかけ、大使が応じないと外務省が乗り出して国家間の問題へと発展することになります」

 勝丸氏は、大使館に連絡して大使に面会を求めた。

「すぐに会うというので、大使館に出向きました。大使と話してみると、彼はそんな深刻な事態に発展しているとは思っていない様子でした。そこで『相手は怪我をしており、警察にヴィクティム・リポート(被害届)を出すと言っています。そうなると刑事事件となり、外務省儀典官室が出てくる問題になります』と言いました」

 儀典官室の名前を聞くと、大使は青くなった。儀典官室は駐日大使館のお目付け役的存在で、日本に滞在する外交官は、ここに通報されるのを嫌うそうだ。

「大使は『私はどうすればいいのだ』と言うので、『相手は謝罪と治療費を求めているようです。これにきちんと対応されるべきでしょう』と言うと、大使は『わかった、誠意をもって対応する』と」

 管轄署が間に入り、その後謝罪と慰謝料の支払いによって示談が成立した。

「管轄署から、『被害届の提出には至らず』との報告が来ました。大使は私にかなり感謝して、『私にできることがあればいつでも連絡ください』と言ってくれました。彼との信頼関係を築いたことは、大きなメリットになります。今後貴重な情報を入手できる可能性があるからです」

デイリー新潮編集部