棋王戦コナミグループ杯五番勝負の第1局が2月5日に長野県長野市で行われ、挑戦者の藤井聡太五冠(20)が渡辺明棋王(38)に先勝した。もし藤井が現在2勝1敗でリードするALSOK杯王将戦七番勝負で羽生善治九段(52)を退け、しかも新たに棋王位を勝ち取れば、史上最年少の6冠達成となる。一方、渡辺が防衛すれば11期連続。棋王の連続タイトル保持記録は羽生の14期である。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

午後からは長考続く

 棋王戦は1日制で、持ち時間は各4時間。対戦成績で12勝2敗と渡辺を圧倒する藤井は、「振り駒」で先手を取った。将棋では先手のほうが、わずかではあるが勝率が高い。とはいえ、藤井はここまで先手で22連勝と、絶対的な強さを見せている。

 双方、事前研究の想定が一致したようで、角交換から驚くようなスピードで駒組が進む。両者が銀を中央に繰り出す「腰掛け銀」で同型になる場面もあったが、藤井が進めた9筋の歩を渡辺が受けずに飛車を1段目に引いた頃から崩れてゆく。

 午前中に70手以上も進んだものの、午後からは藤井が1時間以上の長考をするなど、ぱたりと進展が止まる。藤井は意表を突く桂馬の使い方で両サイドに「と金」を作り、渡辺玉を挟撃。対する渡辺は角で相手の飛車を射程に入れていたが、反撃の突破口が開けない。藤井が角や金を打ち込むと、渡辺玉は遁走を開始。一時は銀を挟んで藤井玉と至近距離で睨み合うところまでで逃げた。それでも安全な入玉を果たせない。引き返し始めたところで藤井に桂馬で王手を指され、この125手目を見た渡辺は午後7時過ぎに投了した。

 藤井の持ち駒は飛車だけだったので、渡辺玉が詰むまでには手数がかかると思われたが、渡辺の駒はほとんど藤井玉に迫れておらず、逆転の可能性がないと見たようだ。

AIの登場で新たな楽しみ方も

 対局を中継するABEMAで解説していた広瀬章人八段(36)は、「角換わりなので早くから変化の激しい戦いになりそう」「渡辺さんが入玉を完成させるのは難しい」と見ていた。広瀬八段と一緒に解説していた藤森哲也五段(35)は、中盤で見せた桂馬の妙手について「藤井さんが指すからすごい手なんだろうと思うけど、普通の人が指せば悪い手と思ってしまう」などと話していた。

 ABEMAのAI(人工知能)形成判断の数値は、一度も渡辺の優勢を示すことがなかった。次の一手が最善手かどうかを表す「ベスト率」は、藤井が63%、渡辺が52%。AIによる解析が進み、ファンは贔屓(ひいき)にする棋士が「AIが示したベストな手を指すか」に注目するようになった。局面にもよるが、トップ級の対局で最善手がわかるファンは少ない。AIの評価値を参考にした将棋観戦は、新たな楽しみ方と言えるだろう。

 藤井が史上最年少で初タイトルを取ったのは、大阪で渡辺から棋聖位を奪った2019年7月だ。渡辺は当時「現代最強」と言われていたが、トップ棋士の中でも極端に藤井に弱い。昨年の王将戦では藤井に4タテを食らって失冠した。

 最近は新型コロナ対策で対局室に入れるのは主催新聞社などに限定されているが、通常、終局の瞬間には報道陣がなだれ込み、すぐにインタビューが始まる。それまで対局者は沈黙しているものだが、この日の二人はインタビューの前にも語り合っていた。

 渡辺は「勝負所がどこかよくわからなかった」と振り返り、藤井が“取ってください”とばかりに渡辺陣の金の前に垂らしてきた「2三歩」を取らなかったことについて、「取ったほうがよかったのかな。でもあれって、取りますかね」などと盛んに問いかけていた。

盤面を描かないのは幼少時の訓練からか

 勝利後のインタビューで藤井は、「中盤から盤面全体での戦いになり、判断に迷う局面が多かった。どういう方針で指すのか一局を通して難しかった」「良いスタートが切れたかな」などと振り返った。

 そんな藤井について、以前から不思議に思うことがある。かつて藤井は「将棋を考えている時、頭の中に何手か先の盤面が描かれるのではなく、符号で考える」といった主旨の発言をしていた。符号とは「2六歩」「3二金」「5三銀成らず」などの指し手のことだ。盤面を描かずに将棋を考えることなどできるのだろうか。

 アマチュアでも強豪クラスになると、符号だけで将棋を指すことができる。筆者が学生だった大昔、同じ大学に1979年の学生名人・瀬良司さんがいたが、「彼は将棋盤を使わずに口で言い合うだけで最後まで指している」と聞いて驚いた。とはいえ、彼とて目の前に将棋盤がなくても、頭の中に将棋盤を思い浮かべていたのではないかと思う。

 近年、AIで研究する棋士が増えたので「若手は盤面を頭に描かずに符号で考えるようになっているのか」とも思っていた。ところが、そうではないようだ。先日、大阪府高槻市で行われた王将戦第2局の大盤解説に駆け付けた時だった。壇上で解説していた稲葉陽八段(34)が藤井についてこのように話した。

「藤井さんは符号だけで考えるそうですが、僕は信じられない。棋士仲間も信じられないと言ってますよ。音楽でいえば楽譜だけ見て曲が流れてくるようなことなのかな。絶対わかんないですよね」

 若手のトップ棋士たちも基本的には盤面を頭に描いて考えるのだ。それなら藤井だけが特別な頭脳構造をしているのだろうか。

 ちょっと思い当たることがある。藤井は小学生の頃、愛知県瀬戸市の「ふみもと子供将棋教室」で腕を磨いた。この教室では、主宰の文本力雄さんが口頭で「はい、玉方は『2二玉』、『1二香車』……持ち駒は飛車と金」などと詰将棋の問題を出し、子供たちは目隠しをして盤面を見ないで考える訓練をしている。

 藤井は小学生時代に53手詰めを解き、文本さんは腰を抜かしたそうだが、盤面を頭に思い描かないのは、そうした訓練の賜物なのかもしれない。とはいえ、この教室で習った子供たちがみな、盤面を描かずに将棋の指し手を考えているとも思えない。文本さんに訊いてみた。

「目隠し将棋は、それが上達に一番効果があると自分で考えて、20年以上前の1期生から実施してきました。1手詰めや3手詰めからあります。聡太が符号で将棋を考えるというのは、直接本人から聞いたことはないけれど、子供の頃からのここでの練習の影響があるかもしれません。でも、彼の頭の中では、盤面も符号もさほど変わらないのかもしれませんね」

 プロ棋士は基本的に、IQ(知能指数)の高い人たちの集まりだ。とりわけ図形を認識する前頭葉の働きが尋常ではないほど優れているとされる。

 大昔に読んだ中平邦彦・著『棋士・その世界』(講談社)には、著名棋士を山手線のホームに立たせ、ドアからどっと降りてきた人について「メガネは何人、男は何人、女は何人ですか?」という質問をしたら、ほぼ正しく答えたとかいう逸話が記されていた。

 いずれにせよ、二十歳の天才、藤井五冠の脳の構造は、きっと脳科学者などにとっては興味深い研究テーマだろう。
(一部敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部