日本でも物価高騰が問題になる中、子供を相手に低価格をウリにする駄菓子屋はどうなっているのだろう。そもそもの価格が5円、10円という駄菓子の値上げは、経営に大きなダメージを与えるはずである。今後、生き残っていけるのだろうか。

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 いかにも昭和という店構えの「ぎふ屋」は、東京・中野区の西武新宿線・新井薬師駅近くにある。春休み中ということもあり、昼間から店前の10円ゲーム機を小中学生が楽しんでいた。店に入ると、これでもかというほど駄菓子が並んでいる。店主の土屋芳昭さん(67)に聞いた。

――お店はかなり古いのですか?

土屋:創業は昭和24(1949)年。戦後のマッカーサー時代、まだこの辺り一帯が焼け野原だった頃、岐阜から出てきた父が生活品などの“何でも屋”、まぁ今でいえばコンビニのような商店を開いたのが始まりです。

――当時は駄菓子屋ではなかった。

土屋:メインの商品は煙草でした。煙草は専売制ですから、食いっぱぐれがないと思って免許を取ったそうです。それでも何でも扱う店だったから、煎餅や飴玉などの菓子くらいはあったんでしょう。もっとも、白い砂糖すらろくになかった時代で、何をもって駄菓子と言ったのか。一説には、白い砂糖で作ったものをお菓子、黒砂糖で作ったものを駄菓子と言ったとか。

平成の駄菓子屋

――現在の業態になったのはいつ頃でしょうか。

土屋:20年ほど前から父の具合が悪くなり、店もろくに開けられない状態になっていました。そんな中にあって、病床の父が「あの土地は手放すなよ」と言うわけです。自宅兼住居だった土地は9坪、建物は7坪程度しかないけれど、借地から始めてようやく自分のものにした土地ですからね。私もここで生まれ育ちましたし、バブル期の地上げにあっても父は手放さなかった。それで店を継いだ17年前に駄菓子屋としてスタートしました。

――すでに平成の世である。なぜ駄菓子屋を?

土屋:私は昭和31(1956)年生まれで、それまでサラリーマンでした。新たに商売を始めるにあたり、昭和という時代に思い入れや愛着があったので、昭和をコンセプトにした店にしようと思いました。また、単価の安い駄菓子ならリスクも少ないという計算もありました。それでも近所の方からは「今は子供なんていねーよ」と言われたものですが……。

――中野区ばかりでなく隣の新宿区、練馬区、杉並区からも子供たちが自転車でやって来るという。

0歳から100歳まで

土屋:そもそも近くに駄菓子屋がないということもあるのでしょうが、当たりくじのついた駄菓子も新鮮なようです。昭和30年代をモデルにしたのも良かったのでしょう。床もコンクリートでしたが板を敷いて小学校の廊下風にしました。すると大人のお客さんが「こんな昔のオモチャがあるよ」と持ってきてくれたりするようになった。商品棚の上に乗っているウルトラマンの人形などがそれですよ。

――時間帯によって客層が変わるという。

土屋:午前中はベビーカーを押したお母さんがやって来る。学校が終わると子供たち、夕方になると大人が来て、遅くまで開けていた頃は酔っ払いがツマミを求めてやって来ました。駄菓子というのはニッチな商売だけど、0歳から100歳まで全ての年齢層のお客さんが来てくれるようになれば、ニッチではなくなると考えているんです。

――ところが、この物価高である。大変では?

土屋:値上げしたり、値段は同じでも量の減った商品が増えましたね。もっとも、それは初めてのことではありません。今に始まったことじゃない。2008年頃も廃業に追い込まれた駄菓子メーカーや価格を上げざるを得なくなったメーカーがありました。

――08年は原油価格が高騰し、小麦粉や砂糖、プラスチック容器などの価格も上がった。

これからが正念場

土屋:当時は国内の影響はそれほどでもなかったので、持続化給付金なんてものもない。それでも銀行からの融資はが止められた。「こんな商売いつまで続けられると思ってる?」なんて言われて家庭内手工業の駄菓子メーカーはモロに影響を受けたんです。今は何百品目の値段が上がるとテレビでも報じているから、消費者も値上げを仕方ないと受け入れてくれるからまだマシなのかもしれません。もっとも、持続化給付金の返済がそろそろ始まりますから、これからが駄菓子メーカーにとっては正念場かもしれません。

――売上は減っていないのか。

土屋:苦しくないとは言いません。でも、他のお店だって同じでしょう。そうは言ってもコロナ禍で他に行くところのない子供がよく来てくれた。大人はお金持ってないけど、今の子供はお金を持っているんですよ。1万円札なんて持っている子にどうしたのか聞くと、「おじいちゃんおばあちゃんがお年玉を振り込んでくれる」と。田舎の祖父母とは会えないけれど、懐は温かいようですよ。

人気ナンバー1の商品は

――大人と子供との会話が成り立つのも駄菓子屋の特徴のひとつだ。

土屋:今の子は会話しながら買い物の勉強をする機会がないんです。誰も教えないのか、チューインガムは紙に包んで捨てるものということを知らず、そのまま吐き捨てる子供もいる。そういう子にはエチケットを教える一方で、「ここにいさせて」という鍵っ子もいれば、「傘貸して」という子もいます。それに応えてあげられるのも、駄菓子屋の文化だと思っています。

――一番人気の商品は「うまい棒」だそうだ。価格は子供10円(税込)、大人12円(税抜)とある。

土屋:仕入れ値は2割上がって1本10円になりました。だから10円で売ったら利益が出ないどころか、仕入れに使う車のガソリン代などを入れたら赤字です。でもね、子供相手に消費税入れて13円にするとは言えないんですよ。その代わり、大人のお客さんにはちゃんと払ってもらいます。大人のお客さんも賛成してくれています。

――懐かしい「すもも漬け」は70円。昭和の頃は30円くらいだったような……。

土屋:そうですね。しかも昔は3粒入っていたけど、今は2粒に減りました。ストローもつかなくなった。コストカットに苦労しているようです。

5円チョコが5円じゃない

――「きなこ棒」は50円、小さくなった「モロッコヨ―グル」は30円、粉ジュースの「アメリカンコーラ」が40円! 御飯のおかずにもなる「さくら大根」は90円! 昔に比べれば高くなった。そういえば、5円玉の形をした「5円チョコ」が見当たらない。

土屋:製造はしているんですよ。だけど1つ1つ個別ではなくなり、値段も上がった。とはいえ、それをバラして5円チョコを1つ15円で売るわけにはいかないでしょう。ですからうちでは置いていません。

――数年前に「梅ジャム」の製造中止が報じられた。

土屋:これは今もあるんですよ。あの時は都内で製造していた職人さんが辞めるというだけ。この世からなくなっちゃうような報じられ方だったけど、梅ジャムを作っているところは今もたくさんあります。なくなりかけても、他のメーカーが引き継いで作り続けているものも少なくない。なくなった商品といえば、製造中止になった「サイコロキャラメル」とか、菓子ではないけど、指に塗ってつけたり離したりすると煙のようなものが出る「おばけけむり」のメーカーは廃業しましたね。「するめ」はイカの不漁で、もはや駄菓子屋に置けるような格安品ではなくなりました。

――仕入れも大変になってきているという。

土屋:駄菓子屋はメーカーと直接取引するわけじゃありません。問屋から仕入れるわけですが、日本最大と言われた日暮里の駄菓子問屋も再開発でほとんどなくなってしまいましたし、1店で全て揃うという問屋さんもなくなりました。問屋さんも高齢化が進んでいます。うちは12〜13軒と取引しないとこれだけの商品は揃わない。ガソリン代もかさむんですよ。

――それでも生き残っていける駄菓子屋があるのはなぜですか。

土屋:うちは今は店と住居は別だけど、自宅を店舗にしている店は家賃はかかりませんし、電気代も少ない。自宅商売は税金も安くなります。年金で生活できるお年寄りのお店は、商売と言うよりも街のコミュニティ的な残り方をしているのでしょう。

――「ぎふ屋」はあと何年続けられるだろうか。

土屋:後継者がいるわけでもありませんしね。単価はさらに上がっていくと思います。「うまい棒」が30円になったら買わないでしょ。あと4〜5年はできるかな。その後は、10円ゲームのゲームセンターになっちゃうかもしれないね。

デイリー新潮編集部