“ブラック校則”という造語が脚光を浴びるなど、近年、校則に対する関心が急速に高まっている。最近でも毎日新聞が「髪型が原因で卒業式を“隔離”させられた」という高校生について報じ、大きな議論を呼んだ。その一方で識者は「議論が過熱化している傾向があり、かえって校則問題の本質が見えなくなってきている」と冷静な対応を求めている。

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 まずは毎日新聞の報道から振り返ってみよう。同紙電子版は3月28日、「黒人ルーツの髪形『校則違反』 卒業式で席隔離 兵庫の県立高」との記事を配信した。

 この記事によると、兵庫県姫路市の県立高校に通う3年生の男子生徒は、卒業式を前にした頭髪検査で教師から「髪が耳にかからないように」との指導を受けた。

 生徒の父親は米ニューヨーク出身の黒人で母親は日本人。式の前日、生徒はアフリカ発祥とされるヘアスタイル「コーンロウ」にしてほしいと美容室で依頼した。

『大辞林第四版』(三省堂)のデジタル版は、コーンロウを以下のように定義している。

《細かくて固い三つ編みをたくさんつくり、毛先にビーズを通した髪型。細かい編み目がトウモロコシに似ていることからついた名》

 生徒が卒業式に出席すると、複数の教師が髪型を問題視。最終的には他の生徒がいない2階席に移動するよう指示された。これに生徒は疑問を抱き、両親と共に式の途中で帰宅したという。

 毎日新聞が父親にも取材すると、《ルーツとする髪形を理由なく違反と決めつけることは差別ではないか》と学校の対応を批判した。

賛否両論のツイート

 この記事自体の反響も大きかったが、脳科学者の茂木健一郎氏がTwitterで学校側の対応を厳しく批判したことで、さらに論争が活発化した。

 茂木氏はTwitterで毎日新聞の記事を引用し、2回の投稿を行った。全文は以下の通りで、改行は省略した。

《クソみたいな教師たち、最低の学校。恥を知れ。生徒がかわいそう。隔離された子も、そのほかのすべての子も。》

《髪型をあれこれ言うことに何か意味があると思っている頭の悪い教師たちが日本中にいると思うと残念でたまらない。多様性を大切にせず、本質がわからない。アホどもに、牛耳らせていると、国が、滅びるぜ。》

 この投稿に賛否両論のツイートが殺到した。まずは賛意を示すツイートから2つを紹介しよう。

《差別はよくないと言われる世の中で、見た目で判断するような校則や教師はいかがなものか》

《必要最低限の節度を求められるのは理解できるけど、今の校則は度が過ぎている》

 その一方で、茂木氏の見解に疑問を投げかけるツイートも少なくなかった。同じように2例を引用する。

《当日にこの頭髪で行っても良いか事前に相談をしなかった生徒側に問題があり、学校と教師側に非はない ルールと相談をすることを軽視した結果であり何ら学校、教師側には落ち度はない》

《髪型含めて身だしなみは大切だし、高校に所属している間は校則に従うのが当然では?》

批判の理由

 激しい議論は、今も現在進行形で行われている。SNSで話題になっただけでなく、メディアも記事を配信した。

◆「クソみたいな教師」「恥を知れ」 コーンロウ生徒を卒業式から隔離...高校対応に茂木健一郎ブチギレ(J-CASTニュース:3月28日)

◆茂木健一郎氏「クソみたいな教師」発言が大炎上…ブラック校則改善の気運に冷や水(日刊ゲンダイDIGITAL:3月29日)

 興味深いことに、上で紹介したJ-CASTニュースの記事がYAHOO!ニュースでも配信されると、コメント欄で筑波大学教授(災害・地域精神医学)の太刀川弘和氏が議論の過熱化を諫める投稿を行ったのだ。ここでは結論部分だけを引用させていただく。

《最近のSDGsや生物多様性に関する議論はどうも極端で、情報の一部を切り取って報じたり、みかけの平等や正義を声高に主張する意見が多く、そのことがかえって意見の多様性やバランスの取れた価値観を阻害しないか危機感をもっています》

 どのような想いから投稿を行ったのか、太刀川氏に改めて取材を依頼した。

「毎日新聞の記事を読み高校への対応に憤りを感じる人は、『文化の多様性』を重視していると考えられます。『コーンロウ』という髪型は黒人文化に根ざしたものであり、それを高校が安易に否定することは民族の特性を否定することにつながりかねない。校則という学校が設定したルールに阿(おもね)りすぎると、異文化の排除を招きかねない、という指摘です。それ自体は一つの見識として尊重されるべきであることは言うまでもありません」

ネット私刑

 その一方で太刀川氏は、コメント欄に《学校の校則を多様性の一般論で批判するのは、真に多様性を理解していない意見を述べられているように思います》と注意を促した。これはどのような意味なのだろうか?

「私が専門とする『災害精神医療』では、『被災者にどう寄り添うのか』が重要なテーマです。これは災害だけの問題ではなく、様々な事情でトラウマを抱えた全ての被害者にも当てはまる問題です。例えば、いじめの被害者を助けようと思っている人が、被害者に同情するあまり『いじめた奴は皆殺しだ』と発言したとしましょう。気持ちは分からなくもありませんが、問題解決にはつながりません」

 それどころか「他人をいじめた奴は殺しでもOK」という言説がSNSなどで拡散してしまうと、結局は「いじめに加担した人をいじめる」という状況が生まれてしまう。

 飲食店での迷惑行為を撮影し、その動画をネットにアップすれば、犯罪行為として処罰されるのは当然だろう。とはいえ、動画の投稿者に対する“ネット私刑”が許されるはずもない。

 毎日新聞の報道を巡る議論では、高校や教師を乱暴に“ひとまとめ”にし、SNSなどで罵詈雑言を浴びせるという動きも目立った。

「実際の教育現場では、校則を重視する先生もいれば、重視しない先生もいるはずです。校則が厳しい学校もあれば、生徒の自由を最大限に尊重する学校もあるでしょう。教師も様々な見解を持っているはずで、学校も様々な校風を持っている。こうした状況こそが多様性の実現であるはずです。にもかかわらず、『教師なんてみんなクズばかり』、『校則なんて絶対にいらない』という極論が流布している現状は、やはり問題があると言わざるを得ません」(同・太刀川氏)

独自性の尊重も重要

 多様性を認めず、相手を“ひとまとめ”にして攻撃するという具体例の一つに、「ルワンダの虐殺」が挙げられる。「ルワンダ紛争」(1990〜93年)で起きた民族虐殺だ。

 フツ族の政府関係者などが「ツチ族は我々を奴隷にしようとしている」と虚偽の主張を展開し、ツチ族やフツ族の穏健派など50万人から100万人が虐殺された。

 教育現場の多様性を無視し、教師や校則を極端に敵視する姿勢は、フツ族がツチ族の多様性を無視し、一方的に敵視した姿勢と通底していると言える。

 加えて、災害支援の現場では「地域の独自性を最大限に尊重する」という姿勢が求められるという。

 医師や看護師によるボランティアチームが被災地で医療支援を行おうとして、地域住民から「私たちは自分たちで助け合うから、あなたたちは必要ない」と拒否されたとしよう。ボランティアチームはどうすればいいのか?

 絶対に口にしてはならないことは、「あなたたちは医療の素人であり、自分たちは医療のプロだ。プロの言うことを聞きなさい」という“意向の完全無視”だという。

「校則の問題も同じことが言えます。ある学校の校則が、関係のない他人にとっては馬鹿馬鹿しく思えたり、問題だらけのルールに見えたりするかもしれません。とはいえ、その学校の伝統や実情に根ざした規則という可能性も充分にあるのです。安易な判断は慎まなければなりません」(同・太刀川氏)

ルールを作るのは人間だけ

 ネット上では「グローバリズムの時代に校則は無意味」とか、「校則は自由や個性を阻害する」という意見も目立つ。一見すると説得力があるように思えるが、実は注意が必要な言説だという。

「どんなに立派な言説でも、教育現場におけるリアルな実情に根ざしていないのであれば、単なる価値観の押し付けに過ぎません。校則を巡る議論は大いに行われるべきですが、あくまで現場がどうなっているのかを踏まえながら、冷静な議論を積み重ねていくことが求められています」(同・太刀川氏)

 校則に関する議論を巡っては、アメリカの認知科学者であるマイケル・トマセロの『ヒトはなぜ協力するのか』(橋彌和秀・訳、勁草書房)が非常に示唆に富むと太刀川氏は言う。

 本書でトマセロは「人とチンバンジーの違い」から規範=ルールが誕生した原点について論考した。

「トマセロによると、他者に共感を覚えるのは、人間だけでなくチンパンジーも日常的に行っているそうです。チンパンジーも『俺も大変だが、お前も大変だよな』と思うことができます。一方、『俺もお前も大変だから、こういうルールを作ろうよ』という発想ができるのは人間だけで、チンパンジーにはできないのです」(同・太刀川氏)

本質的な議論が必要

 泥棒の被害者に共感することはチンパンジーでもできるかもしれない。だが、「泥棒の被害者はかわいそうだから、泥棒を罰するルールを作ろう」と考えるのは人間だけなのだ。

「トマセロの論考を校則に敷衍すると、教育現場で『校則ゼロ』はあり得るのかという問題に逢着します。卒業式の髪型は自由でもいいかもしれません。しかし、制服が義務づけられている学校において、勝手に私服で卒業式に出席しようとしたらどうなるのでしょうか。まして全裸で式に出ようとしたなら、誰もが全力で止めるでしょう」(同・太刀川氏)

 今、求められているのは校則について「考えること」だという。

「毎日新聞の報道を受け、何人もの専門家がネット上で意見を表明されました。しかし、『校則は無意味だ』、『校則は必要ない』という極端な見解も目立ったと言わざるを得ません。もともと日本には“錦の御旗”や“金科玉条”を絶対視し、異論を問答無用で排除するという傾向があり、今回の校則を巡る議論でも同じ傾向が頻発しています。今、求められているのは、性急な結論ではありません。『どうして校則が生まれたのか』、『校則は今後、どうあるべきか』、『多様性とは何なのか』といった本質的な議論であり、一方的に教師や学校を敵視することではないはずです」(同・太刀川氏)

デイリー新潮編集部