「上川陽子専用の選挙マニュアル」

 自民党は東京15区と長崎3区の衆議院議員補欠選挙(4月28日投開票)で不戦敗を選択。島根1区でも敗れ、岸田降ろしの号砲が鳴るのは確実だが、ポスト岸田として今、急浮上しているのが上川陽子外務大臣(71)だ。そんな彼女の来歴と、外遊に際して外務省の職員らが共有する「注意事項」とは――。【前後編の後編】

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 前編では、東大卒業後、三菱総合研究所に入所した上川氏が、政治家を志すまでの道筋を紹介した。夫を通じて、後の政治家人生を決定付ける最強の後ろ盾を得ることになった彼女。しかし、熱望した政界への参入障壁は高かった。

「1988年のハーバード大学留学からの帰国後に、政策コンサルティング会社を設立。彼女は霞が関や永田町で人脈を構築しながら、国政進出の機会をうかがいました。そして96年、衆院選に静岡1区から無所属で出馬したのです」(政治部デスク)

 さる自民党関係者の話。

「上川は自民党候補者の演説会に乗り込んで、握手作戦を実行するなど、なりふり構わぬ選挙を展開したのですが、結果は5位で落選しました」

 上川夫妻を古くから知る、元山口新聞東京支局長の濱岡博司氏が、その時の秘話を打ち明ける。

「落選は目に見えていましたが、晋太郎さんの時代の秘書にお願いをして、その秘書が作成した後援会づくりなどに関する安倍事務所のノートを貸してもらいました。夫の卓苗(たくなえ)君に託したのですが、彼はそれをもとにさらに立派な、上川陽子専用の選挙マニュアルを書き上げたのです」

鉄の意思

 彼女はその虎の巻を用いて、本格的な後援会づくりに着手。再度、2000年の選挙に打って出た。

「当時、静岡1区には別の自民党公認候補者がいたため、彼女は自民党籍を持ったまま再び無所属で出馬しました。そのことで自民党を除籍されましたが、572票の僅差で見事に初当選を果たし、自民党に復党したのです」(前出・デスク)

 07年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画)に任命され、当選3回で初入閣。だが09年の総選挙では落選し、浪人生活を余儀なくされている。国政への復帰は3年後の選挙を待たねばならなかった。

 彼女は人生で壁にぶつかる度、諦めることなく目的を達成してきた。第2次安倍内閣の法務大臣時代に、麻原彰晃らオウム死刑囚の死刑執行を決断。粛々と計16人を処したのも、その鉄の意思のなせるわざであろう。

生真面目さがにじみ出た“トリセツ”

 そんな上川氏だが、外遊に際して外務省の職員らが共有する「注意事項」があるという。いわば、彼女の“トリセツ”である。

「上川外相は外遊先の服装についてかなり気にします。中東圏なら、女性の頭や体を覆うヒジャブを身に着ける必要の有無の確認は当たり前。さらに現地の文化を詳細に調べ上げて、NGの色がないかなどの報告を在外公館から上げさせます。さらに気温や天候、果ては視察先の道の凹凸などにも注意を払い、服装や靴の種類を決めます」

 とは官邸関係者。さらに、

「外遊先ではどんなに日程がタイトでも、必ず本屋に寄ります。そのために、外遊先に選ばれた在外公館は本屋のリサーチが必須になる。彼女はその国で人気の本は何か、また日本に関連した書籍はどんなものがあるのか、自分の目で視察したがるようです」

 ライバルの茂木敏充幹事長にも「霞が関マニュアル」があったが、〈外遊先には栄養ドリンクを持参する〉〈喫煙可能場所リストを作成する〉といった仕事に無関係なものばかりだった。それに比べれば、上川氏の“トリセツ”には彼女の生真面目さがにじみ出ている。

「話が終わる頃には要約がペラ1枚に」

 彼女と親交を持つプラン・インターナショナル・ジャパンの池上清子理事長も以下のように評する。

「彼女は大変なメモ魔で、そのことにはいつも感心してしまいます。打ち合わせをしても、彼女は喋りながらPCに内容を打ち込んで、話が終わる頃には要約がペラ1枚にまとまっています。まねしてみたいですよね」

 ただし、一方ではこんな声も。

「上川外相自らプレスリリースに手を入れるので、やたらと文面が長くなる傾向にあるといいます。下の者に任せるべき仕事を任せることは、トップに立つ人間の必須条件では」(前出・官邸関係者)

 前編では、東大卒業後に三菱総合研究所に入所、さらに奨学金を得てハーバード大に留学したという、上川氏が歩んだ「エリート街道」について報じている。

「週刊新潮」2024年5月2・9日号 掲載