前代未聞の事件

 大きな事件が起きた時に、一定の割合で出てくるのが「実は事件には裏があって……」という解説である。オウム真理教の起こした事件では「実は公安はある程度察知していた」という説が唱えられていた。また近年では薬物事件で芸能人が逮捕されると「政権の目くらましだ」という説がネット上で流布された。多くの場合、これらは「陰謀論」と片付けられるのであまり相手にされない。

 ではこの事件の場合はどうだろうか。

 誰もが知る有名作家が突如、自衛隊の本丸で人質を取って立てこもり、自衛隊員にクーデターを呼び掛けた末に割腹自殺を遂げた――半世紀前、1970年の11月25日に起きた三島由紀夫事件は今なおさまざまな形で語り継がれている。小説や映画をはるかに超える展開に、当時の人々が強い衝撃を受けたことは想像に難くない。

 世界的な評価をすでに得ていた三島氏だけに、事件は海外でも大きく報じられたという。現在でも有名人の犯罪はさまざまあるが、多くの場合、薬物事犯や傷害、婦女暴行といったもので、国家転覆まで視野に入れたものは前代未聞かつ空前絶後だろう。そのため当時から現在に至るまでこの事件を扱った書籍や番組などは数多くある。

 事件から50年目となる今年、刊行されたのが『三島由紀夫事件 50年目の証言』(西法太郎・著)。同書のサブタイトルは「警察と自衛隊は何を知っていたか」。つまり「何かを知っていたのではないか」が著者の問題意識ということになる。冒頭に触れたように、この種の説は陰謀論扱いされがちである。

 しかし、著者の西氏は決して想像や妄想、あるいは単なる推理を開陳しているわけではない。膨大な三島事件裁判資料を精査し、さらに関係者から貴重な証言を得たうえで、「何かを知っていたのではないか」と問いかけているのだ。以下、同書をもとにこの点を見てみよう(引用はすべて『三島由紀夫事件 50年目の証言』より)。

「極左に天下を取られる」

 同書で引用、紹介されている証言は数多いが、中でも注目すべきは佐々淳行氏への独自インタビューだろう。あさま山荘事件などの警備担当者として、また初代内閣安全保障室長として知られる佐々氏は当時、警視庁人事課長。生前の三島氏と深い親交があった。にもかかわらず、佐々氏の数多くの著書では三島氏についての言及はほとんど見当たらない。

 その理由を西氏に問われた佐々氏はこう語っている。

「武士の情けです。書けばいろいろさしさわりがある。こうやって訊かれれば答えます(略)。そろそろ話してもいいかなと思ったのです」

 もともと三島氏と知り合ったのは、佐々氏の姉が三島氏の妹と同級生だったことがきっかけだったという。それが縁で三島氏の家に出入りするようになったのだ。佐々氏はまだ大学生、三島氏はまだ大蔵官僚だった。若き日の恋愛に関する話題も出てくるこの頃のエピソードも佐々氏は語っているがここでは割愛しよう。

 その後、佐々氏は警察庁の前身組織に入る。三島氏のほうは作家として人気を博していく。両者にはさほどの接点はないようだが、実は親交は続いていた。

 三島氏が1964年に発表した作品『喜びの琴』の主人公は公安刑事である。この作品に佐々氏は密かに協力していたという。

「ずっと秘密にしていたのですが、私はあの作品の取材に全面的に協力して職場のことを話した。三島さんは夜電話をかけてきて、1時間でも2時間でも切らない。脚本原稿を送ってきて、それも見てあげた」

 それ以外にも作品に協力をしたことがある、と佐々氏は打ち明けている。その関係性から、三島氏の思想が徐々に過激な方向に進むのを目の当たりにしていた。1967年にはこんなふうに言われたという。

「このままでは日本はダメになる。ソ連にやられる。極左に天下を取られる。自衛隊ではダメだ。警察もダメだ。闘う愛国グループをつくらなければいけない。自分は国軍をつくりたい。日本に戻ったら一緒に手を組んでやろう」

 これに対して、佐々氏は「私兵創設よりも、オピニオン・リーダーとして警備体制強化に協力してほしい」と諫(いさ)めたという。

「玩具の兵隊ですね」

 が、その後も三島氏の危機感は高まるばかりだった。

「楯の会の打ち合わせに呼ばれて、制服のデザインや生地を見せられたことがあった。私兵づくりに協力するわけにはいかないから、大したアドバイスはしなかった。機動隊を管轄する警備課長の時期、2回、三島邸に招かれた。都内で毎日ドンパチやっているのに、三島邸で優雅にお茶をするのもはばかられたんだがね(略)。

 2回目の訪問時、『立派ないいデザインの制服ですけど、玩具(おもちゃ)の兵隊ですね』と言ったら、三島さんはかなり怒ってしまった」(佐々氏)

 三島氏の過激な思想、発言は多くの人の知るところだった。当然ながら「楯の会」は公安のマーク対象ともなる。そのことは佐々氏も認めているが、一方で「警察は三島さんが直接行動に出るとは予想だにしていなかった」という。「楯の会はマークしていたが、三島氏個人のマークはしていなかった」とも証言している。

 これはいささか矛盾した話である。楯の会の幹部らをマークすれば必然的に三島氏をマークすることにもなる。それで本当に事件を察知できなかったのか。

上層部の計算

 さらに西氏が着目したのは事件直前の人事異動だ。佐々氏は事件2カ月前に機動隊をつかさどる警備課長から、人事課長に異動になっていた。三島氏が決起したら、佐々氏は友人を逮捕する立場になってしまう。もちろん、実際には「直接行動」には出ないかもしれない。しかし万が一、何らかの事件を起こしたら……そんな事態を避けるための人事だったのではないか。

 この問いに佐々氏はこう答える。

「それは穿(うが)ちすぎです。人事課長への異動は栄転です。それまでの功績への評価です。前任者は4、5年上だった。もし私が警備課長だったら、機動隊を出動させていません。自衛隊に自分で処理させた」

 しかし、いくつもの傍証を挙げつつ、やはり警察の一部はある程度三島氏らの計画を知っていたのではないか、と西氏は述べている。

「佐々は『穿ちすぎです』と私の疑念を一蹴した。しかし警察上層部は本人に知らせずそう計ったのかもしれない」

 佐々氏は事件翌日から、三島氏の遺族らと頻繁に連絡を取っていたという。警察官僚としてではなく、友人として、だ。どこまで現実の行動に移すかは別として、事件が起きた際に、そういう近い人間が捜査の現場にいるのはまずい、という計算を上層部がしても不思議ではない。

 佐々氏の証言は同書のごく一部であり、西氏は埋もれていた裁判資料などから事件の全貌に迫っている。そこには陰謀論とは一線を画した説得力がある。

 むろん、「何かを知っていた」というのは一つの仮説にすぎない。しかしながら、数多くの関係者の証言は、少なくとも三島事件が突発的、衝動的な行動の産物ではないことを示している。

2020年11月25日 掲載