昨秋開催されたMGC(パリ五輪マラソン代表選考レース)。激しい雨の中、川内優輝(あいおいニッセイ同和損害保険)は国立競技場内から先頭に立ち、2キロを過ぎると出場61選手の集団から抜け出しリードを広げた。その姿を見て、

(川内は代表から消えた)

 と案じたファンも少なくなかった。最初に飛び出した選手はたいてい途中で後続集団に飲み込まれ脱落する。だが、川内は終盤35.2キロ付近まで独走し、6人の2位集団に追い付かれてもなお踏みとどまり、最後まで3位争いを演じた。

 驚異的な粘り。それは“マラソンの常識”をはるかに超える走りだった。

「終盤で大迫選手に競り負けた、それがすごく悔しい」

 レースから3カ月後、話を聞くと川内が言った。

「40キロで私と大迫選手の競り合いになった。3、4回抜き返したのに、最後は離されてしまった。大迫選手をあそこまで追い詰めたのに……。マラソンで彼には一回も勝っていない」

 普段は見えない川内の負けず嫌いがあふれて見えた。

「大迫選手も相当な負けず嫌いなんですね。『川内に負けたら陸上人生を否定される』くらいに思ったんでしょう(笑)。多くの人がイメージしている“プロのランナー”って大迫選手でしょう。私みたいに、レースのたびに観光しているランナーに負けたら……という思いがあったと思います」

1%の可能性

 川内は“市民ランナー”の愛称で広く知られる存在となった。私はその意味を深く理解していなかったと、直接話を聞いて痛感した。2019年に10年間勤めた埼玉県庁を退職。いまは「地域振興型プロランナー」と自称する川内の秘めた可能性を見直す必要がある。彼が毎週のように国内外のレースを走り、無言で体現しているのは、“常識”や“既存の価値観”への強烈なアンチテーゼだ。そして、“日本社会への新たな提言”だと気付かされた。

「海外では以前から私の知名度は高かったんですよ」

 川内が笑った。

「最初は『クレイジー』ってイメージでしたけどね。ドイツにもいた、オーストラリアにもいた、日本に行った時も走っていたって」

 年間2、3レースが常識のマラソン界で、川内だけは12回前後もフルマラソンを走る。2時間20分未満で100回以上のマラソンを走った選手は世界中に川内しかいない。そのクレイジーさが最初は話題だった。

「ボストンで勝ってから、見る目が変わりました。世界選手権でメダルを取った選手さえ『カワウチ、チャンピオン!』って握手を求めてくるようになりました」

 川内は最古の伝統を誇るボストンマラソンを18年に制覇している。日本勢では87年瀬古利彦以来の快挙。その日も激しい雨だった。

「私にとっては最高の天気。レース前、どんどん気持ちが高まりました。持ちタイムは十何番目だけど、今日のボストンなら3番以内にいけるんじゃないか。1%くらい優勝する可能性もあるんじゃないか。ペースメーカーがいないのも利点でした。自分は100%の力が出せて、周りが50%しか出せなければ勝負できます。結局、その1%に入り込んだのです」

 それは根性論ではない。

「ボストンは、経験の差が生かせるレースだったと思います。年間2本か3本しか走らない選手は冷たい雨のレース経験がありません。あの寒さだと普通は怖くて走れない。その点、私には経験値がありました」

“楽な練習”で記録向上

 川内の転機は大学進学時にあった。都大路を目指した高校時代、ケガで高3の時はほとんど走れなかった。そのため箱根駅伝を目指せるような強豪大学から声がかからなかった。指定校推薦で学習院大に進み、そこで猛練習とは正反対の練習に出会った。

「がんばるな、競うことはない」と言う津田誠一監督の言葉に川内は戸惑った。

「練習は学生主体。長距離チーフを中心にメニューを組み立てていました。週2日は休み。追い込む練習は週2回だけ。こんな楽な練習で強くなれるのか?」

 半信半疑だったが、半年後、意外なことが起こった。

「夏を過ぎたら一気に記録が伸びたんです。3000メートルのベストは15分07秒だったのが、14分38秒まで伸びた。大学2年で関東インカレに行けました。ケガもしなくなりました……」

「強めの練習は週2回で伸びる」という確信。だから働きながら走る市民ランナーの道を選べたし、練習の一環として週末のレースを走るスタイルが生まれた。

 それにしても、驚異の粘りと負けん気はいつどんな練習で培われたのか?

「走り始めたのは小学校1年のころ。母が中学、高校で陸上をやっていた影響で、『エスビーちびっこ健康マラソン大会』に出たんです。最初は5番。それから毎日練習して翌年は2番でした」

 母との練習の日々が川内の底流にある。

「毎日が全力疾走。ペース配分はありません。毎日タイムトライアルという訳の分からない練習。それを6年間。ただただきつかった」

 知れば知るほど川内はタダ者ではなかった。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

「週刊新潮」2024年2月22日号 掲載