ロッテのリーが放った強烈な右フック

 乱闘は死球がきっかけになるケースが多いが、マウンドにいる投手よりも、打者に最も近い場所にいる捕手が巻き添えを食うことも少なくない。中でも、1970年代後半から1990年代前半にかけて日本ハム、中日、西武の3球団で計16年間プレーした大宮龍男は、屈強な外国人選手に3度も襲われるという災難続きだった。【久保田龍雄/ライター】

 1976年に駒澤大からドラフト4位で日本ハム入りした大宮は、81年に正捕手となり、打率.249、15本塁打、53打点を記録。守っては強気のリードと飛球を追ってベンチに飛び込むなどのファイト溢れるプレーで、前身球団の東映以来19年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

 最初の災難に遭ったのは、くしくもチームが後期優勝(当時のパ・リーグは2シーズン制)を目前にした同年9月9日のロッテ戦だった。

 8回裏の守備で、1死二塁から右サイドの工藤幹夫が3番・リーに内角直球を投じたことが、発端だった。

「コースは内角のライン上だったし、高さは太ももの辺りで、ごく普通の球」と中村浩道球審も証言したとおり、けっして危ない球ではなかった。だが、「ブラッシングボールだ!」と激高したリーは振り向きざま、大宮の左肩に強烈な右フックを浴びせる。さらに183センチ、88キロの立派な体格から2発、3発とパンチを繰り出した。

大沢啓二監督も「冗談じゃねえぜ、まったく」

「殴り返そうとしたが、体重に押しつぶされた」(大宮)。たちまち両軍ナインが集まり、試合は7分中断。リーは退場を宣告された。

 リーが怒ったのは、8回表に日本ハムの4番・ソレイタがお尻に死球を受け、マウンドの仁科時成をにらみつけたので、その報復と思い込んだようだ。

 リー自身も打撃不振に加えて、トレード報道も出ており、日頃のイライラも拍車をかけた。いずれにしても、大宮は殴られる筋合いはまったくない。「腹の虫が収まらん。オレにもリーを殴らせてくれ」と中村球審に訴えた気持ちもよくわかる。

 大沢啓二監督も「冗談じゃねえぜ、まったく。退場なんか生ぬるい。出場停止にしなきゃ、野球はできないよ。リーはあんなことやっていたら、日本の野球じゃ、生きていけんぞ」と怒り心頭だった。

チーム初の退場者に

“第2の事件”が起きたのは、翌1982年7月13日の西武戦だった。

 0対4とリードされた西武は5回、蓬莱昭彦のタイムリーで1点を返し、なおも2死一、二塁で3番・スティーブが打席に立ったが、カウント2-2から工藤(前出)の6球目が右肘を直撃。スティーブが怒りの形相でマウンドに向かおうとするのを見た大宮が慌てて制止すると、スティーブは大宮を羽交い絞めにして何度も振り回し、183センチ、84キロの体でのしかかってきた。

「工藤に向かっていきそうだったので、『ストップ』と言ったら、いきなりスティーブがかかってきた。(5月28日の南海戦で死球を受け、左頬骨骨折)顔をケガしているから、マスクをとられまいと必死だった。エキサイトするような球ではない」(大宮)。

 直後、両軍ナインが飛び出し、本塁上でもみ合いとなり、エキサイトする大沢監督を西武・広岡達朗監督がなだめるひと幕も。試合は4分中断し、スティーブは1979年の西武創設以来、チーム初の退場者となった。

 ベンチに戻ってもバットケースを蹴り上げるなど大荒れだったスティーブは冷静さを取り戻すと、「私がすべて悪い。大宮は何も罵らなかったし、また何もしていない。なぜか、ついカッとなってしまって、深く反省している」と自身の行動を悔やんだ。

 広岡監督は「日頃から死球が多い(前年16、この年も12)ので、精神的に鬱屈するものがあったようだ」と説明したが、理由はどうあれ、大宮はまたしても、いわれのない暴力を振るわれる羽目になった。

 翌日の試合前、スティーブが「昨日は大変申し訳なかった」と謝罪すると、大宮も「あまり気にしないでください」とニッコリ。これで手打ちとなったはずだったが、話はこれで終わらなかった。

 84年8月22日の同一カードでも、アウトのタイミングで本塁に突っ込んできたスティーブに、大宮も「オレの首目がけて肘を上げてきた」と激高し、殴り合いに発展。2人揃って退場になった。同じ相手と2度もトラブルになるとは、よほど相性が悪かったのかもしれない。

“ベニー・ザ・エキサイティング”

 その後、大宮は中日を経て、1990年に2対2の交換トレードで西武に移籍したが、ここでもご難が待ち受けていた。

 同年3月15日のオープン戦、中日戦、8回1死一、二塁で鹿取義隆の内角高め直球が中日の新外国人・ディステファーノの背中を直撃したことがきっかけだった。

 頭に血が上りやすく、米パイレーツ時代に“ベニー・ザ・エキサイティング”の異名をとった荒くれ者は「シーット(くそったれ)!」と叫ぶやいなや、手にしていたバットを鹿取目がけて投げつけた。

 狙いがそれると、今度は制止に入った大宮に怒りをぶつけ、右手で顔を押さえつけると、183センチ、91キロの巨体を利して5発、6発と顔面パンチを続けざまに繰り出す。大宮も負けずに反撃し、オープン戦では前代未聞の大乱闘に。星野仙一監督までが乱闘の輪の中で帽子を吹っ飛ばされ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。

 試合は4分中断し、ディステファーノは暴行で退場となったが、「オープン戦で論外ですよ」(岡田功三塁塁審)と審判も呆れるばかり。大宮自身もまさか古巣相手のオープン戦で、“3度目の災難”に遭おうとは、夢にも思わなかっただろう。

 屈強な外国人を相手に、3度にわたって体を張って投手を守ったファイトマンは、所属した3球団でいずれも優勝を経験し、日本シリーズに出場。中嶋聡(オリックス→西武→日本ハム、現・オリックス監督)らとともにNPB最多タイ記録の持ち主になった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部