体操世界選手権が10月18日に北九州市で開幕、内村航平をはじめとする日本選手たちの活躍が報じられている。体操が24日に閉幕したあと、27日からは新体操の世界選手も同市内で開催される。開催地の北九州市のホームページにはこう告知されている。

〈今年10月、北九州市において、「2021世界体操・新体操選手権北九州大会」が開催されます。

 今大会は、史上初となる「世界体操」と「世界新体操」の同時開催であり、東京2020オリンピック後、日本における初の世界選手権で、全世界から注目が集まる大会です。〉』

 だが、「全世界から注目が集まる大会」になっているかというと、寂しい現実がある。例えば、今回の世界選手権に出場している女子選手は114名。そのうち東京オリンピックに出場した選手は21名しか出ていない。日本からは五輪選手が4名出ているから、日本を除くと17名しかいない。主な内訳は、アメリカ0、中国0、ロシア(ROC)2、イギリス1。

 アメリカはいわゆる一軍メンバーではない。

「オリンピックの後とはいえ、これほどトップ選手の少ない世界選手権は珍しいです」

 長く体操の指導に関わる関係者が言う。残念ながら、それが今大会の実情だ。

なぜタイシャン(泰山)製を採用?

 それ以上に私が不可解に感じるのは、大会で使用する器具に中国のタイシャン(泰山)製が選ばれたこと。しかも、メディアで見るかぎり、その決定に反対する声も聞こえず、疑問を投げかける報道もなかった。

 何しろタイシャンの器具は、2018年の世界選手権ドーハ大会で使用されたが、上位選手たちが不満を口にし、批判の声が渦巻いた問題の器具だ。大会の10日後に報道された夕刊フジの次の記事を読めば、その概要が理解できるだろう。見出しには『中国“殺人”体操器具、東京五輪で却下 世界選手権で選手危険性指摘』とある(2018年11月13日付)。

〈体操ニッポンに朗報だ。2020年東京五輪の体操で使用される器具について、大会組織委員会は12日、日本の「セノー」フランスの「アベオ」、ドイツの「ユーロトランプ」の3社企業連合の器具を採用する方針を明らかにした。

 今月3日に閉幕した世界選手権(ドーハ)では中国メーカー「泰山(タイシャン)」製の器具が使用され、東京五輪でも採用される可能性があったが、選手サイドから硬く、反発力の少ない器具に不満が噴出。

 特に日本勢は床、跳馬で対応に苦しみ、11年ぶりに金メダル0に終わった。男子床運動で3連覇を狙った白井健三(22)=日体大=は「シライ3」を断念し、難度を落として銀メダル止まり。「最初に床に立ったとき、『これは命に関わる』と思った。最後まで慣れなかった。この床でケガなく帰ってこられてよかったというのが感想。心を折られる器具だった」と危険性を指摘していた。〉

 FIG(国際体操連盟)は、東京2020組織委員会の審査委員会には却下されたが、自らが主導権を持つ今大会では、涼しい顔でタイシャンを押し込んだ格好だ。

ロゴをテープで隠し…

 体操関係者から中国の国内大会の写真を見せてもらった。タイシャンが公認用具であるにもかかわらず、床運動のマットは他社製を使い、ロゴのところをテープで隠している。それほど性能的に差があるのだろうか。

 タイシャン製は価格の安さが他社との違いだ。予算の少ない体操後進国に体操を普及するには価格の安い器具を普及させるのが大事な条件だ、それがFIGの主張だという。そのために、トップレベルの演技に支障をきたし、ケガの危険さえある器具を世界最高峰の大会で使う必然性があるのだろうか? しかも、今大会に備えてタイシャンの器具を購入したクラブによれば、「輸送代と輸入税が加わって国産のセノーを買うのと変わらなかった」と言う。

 今大会でも採用を希望しながら採用されなかった器具メーカーの関係者によれば、

「決定の理由は明らかにされていませんが、協賛金が大きな決め手だったと理解するしかない感じです」

 という。性能や安全性ではなく、協賛金や無償提供などを選考基準の最上位に据えているのだろうか。それは体操に限らず、オリンピックでも見られるスポーツ界の実態だが、オリンピックや世界選手権で採用された器具や設備は、一般には「世界最高峰レベルの評価がされた」と誤解を生じやすい。その悪影響を今後も軽視していいのだろうか。

畠田瞳が負傷

 そして実際、心配されていた出来事が起こった。

 日本のメディアはほとんど報じていないが、大会前、スペインの男子選手が鉄棒の練習中に鉄棒を支える斜めに張ったワイヤーが切れ、鉄棒全体が傾いて落下した。この選手がこの動画を発信し、実態を訴えている。私もこの動画を見た。途中で斜めのワイヤーがプツンと切れ、鉄棒が傾いて選手はバランスを失った。大きなケガはなさそうだが、演技中に突然鉄棒が傾いたら、その後安心して演技に集中できないだろう。

 さらに、大会が始まってから、すごく心配なニュースが、さらりと伝えられた。個人総合に日本からはただひとり出場し、予選で4位につけた畠田瞳について、デイリースポーツは次のように伝えた。

〈日本体操協会は20日、女子個人総合予選4位で、メダル獲得も期待された畠田瞳(21)=セントラルスポーツ=がこの日の練習中に首を負傷し、21日の決勝を棄権すると発表した。

 畠田はこの日の夕方、北九州市内の練習場で段違い平行棒の手放し技(コモア)で落下した際に首を負傷。中心性脊髄損傷・頸椎打撲と診断された。〉

 淡々と、わかっている事実だけを伝えている。だがよく読めば、とても深刻な出来事だ。畠田選手の状態が案じられる。「中心性脊髄損傷」について調べてみると、今後の競技生活への影響が心配され、重さによっては日常生活に支障をきたしかねない深刻なケガだ。

 この落下に器具の影響かあるかどうかは断定できないが、もし影響があったとすれば、起こるべくして起きた重大な人災の恐れもある。長く女子体操に関わる指導者が言う。

「畠田瞳選手が段違い平行棒で落ちるところは国内では見た記憶がありません。ほとんど失敗しない選手ですから。ケガをしたのは、敷いていたマットが硬すぎたことが原因かもしれません。とにかく硬いのです。いつも使っている国産のマットは柔らかいので、落ちてもあまりケガをすることはありません」

 しっかりと調査し、今後の判断を毅然とすべき事案ではないだろうか。

 このような謎が放置される体操界でいいのか? 指摘するメディアもないのは、スポーツ界が団体とメーカーとメディア一体となり、イベントを盛り上げようと躍起になり、利益を追求する体質に染まっているためかもしれない。

 選手の安全と競技力の向上、競技環境の整備を最優先するのは大前提だ。そうなっていないなら誰かが声を上げ、改善しなければ世界中で事故が多発する恐れがある。危険を放置するのは許されないし、そうなれば、普及どころか体操競技に深刻な打撃を与えるだろう。畠田選手の快復を祈るとともに、徹底した安全の見直しと、こうした曖昧な決定がなされる組織の体質改善を念願する。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

デイリー新潮取材班編集

2021年10月23日 掲載