“接待攻勢”で体重オーバー
プロ野球のドラフト1位で入団した選手は、「10年はクビを切られない」「最低5年は保証される」などと言われるが、“結果がすべての世界”とあって、大輪の花を咲かせることなく、早々と退団した「ドラ1組」も少なくない。最短の2年で、退団の悲哀を味わったのが、1993年のドラフトでロッテを逆指名(1位)した加藤高康(NTT東北)である。【久保田龍雄/ライター】
逆指名制が導入された同年、140キロ台後半の速球と4種類の変化球を投げ分ける24歳の即戦力左腕は、契約金1億6000万円、年俸1200万円(推定)という“破格の条件”で入団したことで話題をさらった。
八木沢荘六監督は「実力を発揮できれば、10勝も十分に期待できる。アリゾナキャンプにも連れていく」と期待をかけ、本人も「目標は大きめのほうがいいので、そのくらい(10勝)の数字を考えてます」と自信をのぞかせた。
だが、年末年始の挨拶参りで“接待攻勢”を受け、ベスト体重を6キロオーバーの94キロでキャンプインしたのが、誤算の始まり。走り込みなど懸命の減量作戦にもかかわらず、キャンプ終盤になっても90キロを切ることができず、「きちんと投げられないようでは、1軍にいても仕方がない」(八木沢監督)とダメ出しされた。
さらに2軍スタートとなった4月に左膝を痛めたのが、その後の野球人生に暗い影を落とす。「痛いな」と思いながらも投げつづけ、7月に1軍昇格後、2勝を挙げた加藤だったが、プロ初勝利の1週間後、1994年8月6日の日本ハム戦でのプロ初完封が“最後の白星”となった。
翌95年は故障の影響で2軍戦にも登板できず、たった2年で戦力外に……。退団後の12月に左膝を手術した“元ドラ1”は「来年も治療に専念します。1年はじっくり治療と練習をして、やれるようだったら、もう1度プロに挑戦したい」(同年12月16日付スポーツニッポン)の言葉どおり、96年10月にレッドソックスとマイナー契約を結んだが、メジャー昇格の夢は叶わなかった。
“おんぶスクワット”で半月板を損傷
88年、新球団・ダイエー(現・ソフトバンク)の「ドラ1第1号」になりながら、わずか3年でユニホームを脱いだのが、篠田淳(大垣商)である。
夏の甲子園大会3回戦で、津久見の川崎憲次郎(元ヤクルト、中日)と壮絶な投げ合いを演じ、0対1と惜敗も、「大会ナンバーワン左腕」と注目された篠田は、中島輝士(プリンスホテル)の競合抽選で日本ハムに敗れたダイエーに「外れ1位」で指名された。
「やるからには1年目から1軍でやりたい。ストレートにもっと伸びをつけて、速球で三振を取れる投手になりたい」と力強く語ったダイエー1期生だったが、入団早々、コーチから膝の弱さに起因するフォームの癖を直すよう、改造を命じられたことが、アダとなる。6月には、膝の強化を目的とする“おんぶスクワット”をしていたときに半月板を損傷してしまう。
さらに慣れないフォームで投げつづけているうちに、今度は肩を痛め、3年間1軍登板のないまま、91年オフ、戦力外通告を受けた。その後、地元・中日のテストを受けたが、全力投球した直後、肩が完全に壊れて、すべてが終わった。
現役引退後、親会社のダイエーに再就職した篠田は「どうせダメだったのかもしれないけど、1年でいいから(高校時代の)自分のフォームで投げて、そのうえで結果を見てほしかった」(週刊ベースボール1998年12月7日号)と回想している。
「2度とオレの前に姿を見せるな!」
即戦力の先発候補と期待されながら、3年で戦力外になるも、台湾での武者修行を経て、“古巣復帰”という異色の球歴を持つのが、1994年の中日のドラ1・金森隆浩である。
立命大時代に2年連続で日米大学野球代表に選ばれた速球派右腕は、紀田彰一(横浜高→横浜→西武)の「外れ1位」ながら、潜在能力では巨人の逆指名1位・河原純一(駒大)より上とみられていた。
1年目に故障で出遅れた金森は、翌96年10月2日の広島戦、18対5と大きくリードした9回にリリーフとして初めて1軍のマウンドに上がると、「一人ひとりを打ち取ることだけ」を考え、1三振を含む3者凡退でまずまずのデビューを飾った。
ところが、プロ初先発を任された10月9日の阪神戦では、球に切れを欠く苦しい投球のなか、初回に新庄剛志と塩谷和彦に満塁弾を浴び、8失点と大炎上。「1イニングに2本の満塁被弾」は、史上初の珍記録だった。
降板後、星野仙一監督から「これを記念に消えてなくなれ。2度とオレの前に姿を見せるな!」と言い渡された。奮起を促す叱責にも取れるが、これが1軍最後の登板となり、翌97年オフに戦力外通告を受けた。
翌年は球団と交流のある台湾・統一に移籍し、先発、リリーフとして3勝2敗、防御率3.09の成績を残すと、この活躍が認められ、2年ぶりの中日復帰が決まる。だが、99年はチームが11年ぶりリーグ優勝をはたしたにもかかわらず、1軍で1試合も登板できないまま、2度目の戦力外通告を受け、現役を引退している。
わずか2、3年で消えていく「ドラ1組」の一方で、2007年の大学・社会人ドラフトで巨人に1巡目指名された村田透は、3年で戦力外になったあと、米球界挑戦を経て、ドラフト指名から10年後の日本ハム時代にプロ初勝利を挙げた。
このほか、17年の楽天1位・近藤弘樹も3年で自由契約になったが、ヤクルトの育成選手から這い上がり、21年に開幕から14試合連続無失点を記録するなど、期間限定ながらセットアッパーとして活躍した。
こんな“敗者復活劇”が実を結ぶのも、野球の醍醐味と言えるだろう。
久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)
デイリー新潮編集部