中国政府が最新の領土・領海地図を発表した。台湾を領土に、南シナ海の90%を領海にするなど、一方的な主張にアジア各国は猛反発。日本も対岸の火事ではない。近い将来、尖閣や沖縄も中国領として表記しかねないからだ。かの国の思惑と行動原理を解説する。【譚 ろ美/作家】

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 中国の自然資源省は8月28日、「2023年版標準地図」として、最新の領土・領海地図を発表した。

 それによれば、南シナ海のほぼ90%の海域を中国領としている。また、中国はこれまで「九段線」と呼ばれる独自の領海線を主張してきたが、今回の新地図では、台湾東部に1本線を書き足して「十段線」とし、中国領に組み入れた。ヒマラヤ地域では、インドとの領土紛争が続いているインド北東部のアルナチャルプラデシュ州を中国領と明記した。

各国から一斉に抗議が

 この国際法を無視した中国の勝手な言い分に、フィリピン、マレーシア、台湾、ベトナムなど、アジア各国・地域から一斉に抗議の声が上がっている。

 フィリピン外務省は「フィリピン領土・領海に対して中国が主張する主権や権益を正当化するこの試みには、国際法上の根拠が全くない」として、2016年にオランダ・ハーグの仲裁裁判所が下した南シナ海における中国の主権主張を退けた裁定を順守するよう、中国に強く要求した。

 ベトナム外務省は、「ベトナムの海域に対する主権、管轄権を侵害している」として外交的な抗議文書を発表。「地図に基づく中国側の主張にはなんら価値はなく、ベトナムの主権と国際法に違反している」との見解を示した。

 また、マレーシアも中国がボルネオ島(カリマンタン島)沖の排他的経済水域(EEZ)と重なる海域を自国領だと主張していることに反発。

 中国との国境紛争を抱えるインドは、「国境問題の解決を複雑にするだけだ」として、即刻中国に抗議した。

 台湾外交部の報道官は、「中国政府が台湾の主権を巡る自らの立場をどのように歪曲しようとも、われわれが存在するという客観的な事実を変えることはできない」と語った。

 これに対して、中国外務省の汪文斌(おうぶんひん)報道官は、8月31日の定例記者会見で、「中国の南シナ海問題での立場は常に明確だ。関係各国・地域が客観的で理性的に対応することを望む」とコメントして、中国の領有権主張を正当化した。

 今後、南シナ海の領有権を巡って、中国とアジア各国・地域との議論が益々白熱するものと予想されるのである。

中国文化の「タイム・カプセル」

 それにしても、中国はなぜこれほど地図に拘るのか。その答えは、中国では「地図は歴史学の一部である」からだ。

 日本では通常、地図は学校の地理教科書の付属教材として用いられ、地理の授業で習うものとされている。だが中国の場合、地理は歴史と深く結びつき、地図は歴史を学ぶ際の“必須アイテム”になっている。

 中国では、1980年代になって「歴史地理学」が確立された。地理学と歴史学を融合させ、過去のさまざまな要素を地理と結びつけて研究する新しい学問である。過去の地名や景観を調べたり、消滅した郷土の文化を再現したり、過去の物流を分析して現在と見比べたりする。学問分野の垣根を越えて研究することによって、過去の中国の具体的なイメージ作りをしたり地理的空間を再構築する。いわば中国文化の「タイム・カプセル」を作るのだ。

 中国政府は、その「タイム・カプセル」を現代政治と結びつけた。そして南シナ海の領有権を主張することを、理論上正当化したのである。だから中国が作る地図には、歴史と文化が凝縮されている。

勝手に書いた「線」

 さて、今回発表された「2023年版標準地図」を改めて見てみよう。

 私がとくに注目したのは「台湾」だ。前述の通り新地図では、従来から中国が主張してきた「九段線」に加えて、台湾東部に新たに1本線を引いて、「十段線」とした。

 これは中国にとって極めて重大な決断だった。というのも、この「十段線」の背景には、戦前から続く長い変遷があるからだ。

 最初に南シナ海に「線」を引いたのは、1936年、古地図学者の白眉初(はくびしょ)だった。その前年、国民政府は、英語版の中国地図を中国語に翻訳して官報に載せた。だが、南シナ海の島と暗礁は100以上あり、複雑に入り組んでいて分かりにくい。

 そこで白眉初は高校生用地図帳を刊行する際、赤と黒のペンを使って、官報の地図にある島と暗礁を囲った。それを自分のオリジナル地図として、「海疆南展後之中国全図(かいきょうなんてんごのちゅうごくぜんず)」と命名。「明清時代から南へ展開した中国の地図」という意味である。「1936年の最新中国地図」と、ただし書きもつけた。

 これを見た国民政府は学者先生のお墨付きをもらったと喜び、47年、白眉初の地図を使って「南海諸島位置略図」を制作し、公式地図とした。ひとつだけ違ったのは、白眉初が赤と黒のペンで書いた「線」を「破線」に替えたことだ。その破線が11本あったことから、十一段線」と呼ばれた。

 なぜ11本だったのか。何も考えずに破線を引いたら、たまたま11本になっただけかもしれないという研究者もいるほど、根拠は不明だ。

「重大な欠陥」

 この「十一段線」を「九段線」に変えたのは、あの毛沢東だった。53年、中華人民共和国が樹立(49年)して間もない時期である。

 中国の数少ない承認国であった北ベトナム(当時)に友好関係を示すため、毛沢東はベトナムのトンキン湾と広東省との陸地にまたがる破線を2本消した。これが「九段線」の由来である。

 今日まで、中国が南シナ海の領海権を主張する最大の根拠としてきたのが、この白眉初の「海疆南展後之中国全図」と、国民政府の「南海諸島位置略図」の二つだった。だが、これには「重大な欠陥」があった。

 実は、白眉初の地図にある「線」は、台湾と中国大陸の間にある狭い台湾海峡に引かれていて、台湾が中国領になっていないのだ! 台湾は、日清戦争で日本に割譲されたため、地図が制作された36年の時点では日本領であって、中国領ではなかったからだ。

台湾が「宙に浮いた存在」に

 国民政府が47年に作った地図でも、「十一段線」は台湾とフィリピン領ルソン島の間にあるバシー海峡に引かれている。第2次世界大戦後、台湾は日本から中国へ返還されていたものの、46年に国共内戦が勃発したことから、地図どころではなくなり、台湾が「宙に浮いた存在」になっていたのではないかと推測される。次いで、毛沢東の「九段線」にも台湾は入っていなかった。つまり中国領だと主張していなかった。

「重大な欠陥」がある地図は、台湾の領有権を主張するうえで、中国政府を大いに悩ませた。

 それが今回の「2023年版標準地図」では、「九段線」を「十段線」としたことで、半世紀以上にわたって頭痛のタネであった「重大な欠陥」を解消したことになったのだから、中国政府はさぞ安堵していることだろう。

「夢の中国」

「2023年版標準地図」には、もうひとつ、中国の歴史観が如実に表れていることが特徴だ。

 私は一昨年、『中国「国恥地図」の謎を解く』(新潮新書)を出版したが、「国恥地図」に示された歴史的な怨念が、新地図にも持ち込まれているのである。

「国恥地図」とは、清朝時代の過去100年間に戦争によって国土を外国に奪われたことを「国の恥」と考えて、「奪われた国土」の範囲を示した地図のことだ。作成されたのは1920年代で、中国をかろうじて統一した蒋介石・国民政府が、政治に無関心な国民に国家の概念を教え、愛国意識を高めさせようと、「愛国主義運動」を展開して大々的な「国恥」教育を行った。

 だが、困ったことに、国民の80%は文字が読めない。そこでそれら国民や子供にも分かるように、清朝時代の版図(はんと)を基準にして赤い線で囲った「古い時代の境界線」と、20年代の中国の領土である「現在の境界線」の二つを地図に描き、失った領土範囲の大きさを示してみせた。

「古い時代の境界線」とは、近代的国家システムでいうところの中国ではなく、広い意味での中国、つまり文化的に中国人が活動していた範囲を指している。大陸続きの辺境の地に住む「藩属」や、南シナ海の「朝貢国」など、中国が直接統治していないが、王朝の権力や威光が及んでいた支配範囲である。つまりグレーゾーンだ。そのグレーゾーンを含めた支配範囲を「古い時代の境界線」として描いた。一方、「現在の境界線」とは、近代国家として国際法に基づく国境線で示された中国の領土範囲である。

 ということは、国恥地図には、中国の人々が思い描いたかつての「夢の中国」と、近代主権国家の「領土」という、時空を超えた二つの概念がねじれた形で結合し、二重構造になっているのである。

「失地意識」

 南シナ海にはすでに20年代から強い関心が集まっていたが、30年代に始まった日中戦争で日本に東北部を奪われたことにより国土意識が高まった。さらに第2次大戦後、フランスやイギリスが植民地にしていた東南アジアの国々が次々に独立するに至って、過去の栄華が見直されるようになってきた。

 かつて明の時代には海洋貿易が盛んで、東南アジアの朝貢国とひんぱんに交易してきた。明代の鄭和(ていわ)が千隻の船団を組んで航海したという「西洋くだり(南海遠征)」(広東省以西の海を「西洋」、広東省以東を「東洋」と称した)が、その象徴である。南シナ海はかつて「中国の庭」だったのに、それを諸外国に奪われてしまったという「失地意識」が生まれたのだ。

 とはいえ、国民政府が「国恥地図」を作った目的は国民教育のためであって、決して対外的に主張するためのものではなかった。

まずは地図を広める

 しかし、90年代から大きく経済成長した中国は、国民をひとつにまとめるために、再び愛国主義教育が必要となった。国民の不満の矛先をそらすために、国外に仮想敵国を設定し、国内の団結を図ろうという意図だ。

 97年の「香港返還」は、愛国主義を盛り上げる好機だった。阿片戦争でイギリスに奪われた香港が戻ってくるのを記念して、「国恥地図」の復刻版が出版され、国恥意識をあおったのである。

 そして21世紀、経済大国になった今こそ「失地回復」して、「本来の姿」に戻すべきだという強い使命感に突き動かされるようになった。

 さて、今回の「2023年版標準地図」の発行元である中国自然資源省は、毎年複数の地図を発行しているが、これまであまり注目されたことはなかった。それがにわかに注目されたのは、ASEAN関連首脳会議(9月5〜7日開催)やG20(9月9〜10日開催)が間近に迫った時期の発表であったからだが、なぜ、この時期だったのか。

 自然資源省のウェブサイトをみると、「地図は誰でも無料で閲覧・ダウンロードできます。メディアで使用するのも可能です」と書いてある。あえて、この時期に発表したことにより、案の定、世界中の関心事となり、報道ではダウンロードされた地図が軒並み掲載されている。うがった見方をすれば、中国は経費をかけずに世界中に新地図を広めて認識させたかのようだ。反発は承知の上で、やがて静まるだろうという安易な見通しを立てているのではないか。

背景に国内情勢の逼迫が

 今、南シナ海に強く固執するのは、国内情勢が逼迫(ひっぱく)しているせいもあるだろう。中国経済が減速し、若年失業率が高くなり、国民の不満は限界点に達しつつある。しかも「飽食の時代」に慣れた国民の食欲は底なしだ。

 今後も経済発展を支え続けるためにエネルギー資源と水産資源を確保することは喫緊の課題になっている。南シナ海を掌握すれば、今後30年間、国民の胃袋を満たし、国の発展を維持し続けられると、中国では分析されている。

 マラッカ海峡を押さえてシーレーンを統制し、南シナ海の深水域で核搭載潜水艦が自由に活動できれば、「航行の自由作戦」を展開している米国に対抗する強力な手段にもなる。

 9月5日、松野博一官房長官は「2023年版標準地図」について発言し、日本の尖閣諸島が中国の主張に基づき「釣魚島」と表記されているとして中国側に抗議し、即時撤回を求めた。

 これに対して、中国外務省の報道官は翌日の会見で、「釣魚島とその付属島嶼(とうしょ)は中国固有の領土であり、日本の抗議は受け入れない」と反発した。

「うそも百回言えば、真実になる」を実践

 今回発表された新地図の「十段線」の中に、尖閣諸島は含まれていない。それにもかかわらず、頭の中ではすでに中国領だとして譲る気配はみじんもない。

「2023年版標準地図」と銘打ったからには、今後も「24年版」、「25年版」と続くだろう。近い将来、中国が新たに作成する地図には尖閣諸島どころか、沖縄を中国領として発表することも想定しておかなければならない。

「うそも百回言えば、真実になる」――と、よく言われる。

 言い続けることが重要なのだ。100年たてば目撃証人はいなくなり、記録に残された内容だけが歴史の証明になる、というわけだ。

 さて、日本はどうするか。日本政府がしばしば口にする「重大な関心を持って注視する」だけでは済まされない。国際外交のさまざまな場で、繰り返し日本の立場を主張し続け、公式記録に残しておくことが肝要だろう。

譚 ろ美(たんろみ)
作家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。元慶應義塾大学訪問教授。革命運動に参加し日本へ亡命後、早稲田大学に留学した中国人の父と日本人の母の間に生まれる。『中国共産党を作った13人』『阿片の中国史』『戦争前夜―魯迅、蒋介石の愛した日本』など著書多数。

「週刊新潮」2023年9月28日号 掲載