指示役「ルフィ」による広域強盗事件が世間の高い注目を集める理由には、フィリピンのマニラの収容所にいながらにして事件を起こした意外性にあるかもしれない。やりたい放題の収容所の実態が明らかになりつつあるが、それはカンボジアでも同様のようだ。もっとも、唯一の日本人収容者がおくる生活は「ルフィ」とは全く異なるようだが……。旅行作家の下川裕治氏が取材した。

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 カンボジアのプノンペンにある収容所でも、賄賂が横行する実態が、昨年まで1カ月ほど収容されていた人たちの証言でわかってきた。そして海外の収容所のささくれだった空気も……。

 その収容所、リモーバルセンターはプノンペン国際空港のすぐ近くにある。1階と2階に分かれ、行き来はできない。部屋数は20弱。そこに常時100人を超える男女が収容されている。大多数は中国人で、多くが不法滞在、つまりビザが切れた後もカンボジアに滞在していた人たちだ。だが、なかにはカンボジアや本国で罪を犯した外国人もいる。密入国した中国人もいたという。

 収容所内は鉄格子で囲まれ、夕方の5時から翌朝の8時までは部屋の鍵が閉められる。それ以外の時間は廊下や中庭に出ることができた。スマートフォンやパソコンの持ち込みも自由。食事は1日2回、弁当が配られる。小さな売店もあり、飲み物やタバコを買うこともできるというから驚きだ。

やりたい放題の中国人収容者

 話をしてくれたひとりは、収容された翌日、ある職員から、「500ドルを払えばここから出してあげる」ともちかけられたという。疑わしかったので話には乗らなかったが、金がものをいう収容所の現実を翌日から知らされることになる。

 中国人たちはかなりの現金をもち込んでいた。事前に収容所の実態がわかっていたようだ。彼らは支給される弁当はほとんど箸をつけず、ネットで宅配の食事を注文する。それが職員が待機するベンチに届く。1階に収容されている中国人たちは現金を手に食事を受けとりに行くのだが、そのとき、1万リエル、約300円を渡す。職員たちはそれをさっとポケットに入れる。支払いの現金は職員に渡し、おつりも職員のポケットに。中国人との間で、話がついているようだった。

 中国人の多くは、職員に金を渡して、手持ちのアメリカドルの両替を頼んでいた。収容所内には刃物、缶詰類、トイレットペーパーの持ち込みは禁止されていたが、中国人は全員、ティッシュペーパーを持っていた。報道されている、フィリピンの収容所のような個室はないが、中国人はしばしば部屋を変わっていた。部屋の広さはまちまちで、快適な部屋の空きが出ると移ることができるようだった。裏金がものをいう世界だった。

 収容されている男女のなかには、強制送還後、本国での裁判が待っている人もいる。国によっては重罪になる人もいるようだ。彼らの精神状態は不安定で、収容所内では頻繁にけんかが起きる。ひとりのアメリカ人は収容者を殴り、独房に入れられていた。中国人のなかには、職員に賄賂を渡し、強制送還を延ばしてもらっているという人もいるという噂だった。中国に帰ると収監される犯罪者のようで、中国の刑務所よりカンボジアの収容所のほうが快適という構造はフィリピンに似ている。

中国人のおこぼれにあずかる日本人

 日本人男性もひとり収容されていた。その日本人はほとんど金がなく、ビザの更新ができずに不法滞在したことで収容所に入れられていた。飛行機代を用意できないようで、いつ帰国できるかわからない状態だったという。

 私に話をしてくれた元収容者は、この日本人を気遣っていた。収容所内でときどき話をしたという。彼は金がなく、収容される前は、水田にいるタニシを獲って食べてカンボジアで生活していたこともあったらしい。収容所内でも、中国人が頼んだ宅配料理の余りをもらっていた。1階に届いた食事は、職員がロープで引き上げて2階にいる収容組に渡すのだが、日本人はそれを手伝い、職員から飲み物などももらっていた。

 元収容者はこういった。

「日本人は食事がタダから天国だっていったけど、私から見れば地獄。物を盗る収容者もいるから、油断もできない。中国人はなにを持っているかわからない。彼らは金があるからなんでもできる。刑務所と違って甘いから、かえって危険。もう2度と入りたくない」

下川裕治(しもかわ・ゆうじ)
1954(昭和29)年、長野県生れ。旅行作家。『12万円で世界を歩く』でデビュー。『ホテルバンコクにようこそ』『新・バンコク探検』『5万4千円でアジア大横断』『格安エアラインで世界一周』『愛蔵と泡盛酒場「山原船」物語』『世界最悪の鉄道旅行ユーラシア横断2万キロ』『沖縄の離島 路線バスの旅』『コロナ禍を旅する』など、アジアと旅に関する著書多数。『南の島の甲子園―八重山商工の夏』でミズノスポーツライター賞最優秀賞。

デイリー新潮編集部