『M−1グランプリ』の歴史の中でも、昨年末の大会は「上位3組がそれぞれ結果を出してその後も活躍している」という点で特筆すべきものだった。



 優勝したミルクボーイが大活躍しているのはもちろんだが、それに続くかまいたちもぺこぱもブレークしている。2位だったかまいたちは、ほかの2組に比べるともともと知名度があった分だけ大会前後の落差は少ないが、改めてその面白さを認知され、着実に仕事を増やしている。3位だったぺこぱも最近になってバラエティー番組に出まくっている。

 ぺこぱが『M−1』で見せた漫才は世間に衝撃を与えた。シュウペイの放つ軽いボケに対して、松陰寺太勇はツッコむと見せかけてツッコまない。

 タクシー運転手を演じるシュウペイが道端で手を挙げている松陰寺を車ではねると、松陰寺は「いや、痛えな、どこ見て運転してんだよ……って言えてる時点で無事で良かった」と言う。さらに、続けてもう一度ぶつかったときにも「いや、2回もぶつかる……ってことは俺が車道側に立っていたのかもしれない」と言う。

 本来なら、ツッコミは常識を振りかざして非常識なボケを訂正するものなのに、ボケに理解を示す「優しいツッコミ」を繰り出したのが斬新だった。

 インターネットが社会を分断しているせいで、現代人は優しさに飢えている。だから相手を否定しない「優しいツッコミ」が人々の心を和ませたのだ、というようなもっともらしい話まで出てきている。

 ここで改めて考えたいのは、ぺこぱの漫才における「優しいツッコミ」はなぜ面白いのか、ということだ。これを考えるには、そもそもツッコミはなぜ面白いのか、というところから話を始める必要がある。

「ツッコミが面白い」と言うと、違和感を持つ人もいるかもしれない。「面白いのはボケの方だろう」と。しかし、違うのだ。冷静に観察してもらえれば明らかなのだが、漫才でボケとツッコミがあるとき、多くの人はツッコミのタイミングで笑っている。ボケで笑う人はほとんどいない。

 なぜなら、ボケはツッコミで笑いが起こるようにセッティングされているからだ。ボケとツッコミはもともと一体のものだ。ボケはツッコミとの合わせ技で威力が増すように作られている。だから、ボケとツッコミの間の尺は通常とても短い。ボケを聞かせた後、観客が理解するかしないかのうちにツッコミを重ねることで、溜め込んだ分の笑いがドッと起きるようになっている。

 ツッコミは「ここが笑いどころですよ」と観客に合図を送る役目を果たしている。特に、ボケが非常識すぎて分かりづらいときには、ツッコミがどっしりと常識の上に立ち、安定したポジションから的確な指摘をすることが重要になってくる。ツッコミは明快で分かりやすいものである必要がある。ツッコミが常識の側に立つのはそのためだ。

 優しいツッコミはその点で掟破りである。ツッコむと見せかけてツッコまないのは、明らかに非常識な振る舞いであり、もはやツッコミというよりボケに近い。でも、これに対するツッコミはもうない。それなのに優しいツッコミできっちり笑いが起きるのはなぜなのか。

 それは、優しいツッコミが漫才としては非常識だが、日常においてはごく常識的な振る舞いだからだ。その意味で常識に軸足を置いているからこそ、見る側は安心して笑えるのだ。

 そもそも、一般的な漫才のようにボケとツッコミがはっきりしている状態というのは、日常ではめったに見られない特殊な状況である。ボケに対して大声でキレのあるツッコミを放つということ自体が、本来は不自然であり、非常識なことなのだ。

 理解できない状況に直面したとき、自分の方が正しいに違いないと信じて、相手を訂正しようとするというのは、普通の人間の振る舞いではない。普通なら、まずは何とか理解しようとするはずだ。松陰寺の優しいツッコミは日常では当たり前の行動なのだ。(もちろんここには「理解しようとしすぎる」という別の種類のボケも紛れ込んではいるのだが。)

『M−1』の決勝でぺこぱは10組中10番目に出てきた。観客や視聴者は、よりすぐりの9組の漫才を見た後で、ぺこぱという「日常」に帰ってくることになった。

 優しいツッコミを通して、彼らはボケとツッコミが大声でがなり合う「漫才」の方が実は不自然なものであるということを浮かび上がらせた。これは『M−1』という大会全体に対する批評にもなっていた。だからあれほど衝撃的だったし、あれほど受け入れられたのだ。

 これは、ボケとツッコミという伝統のない非関西出身の芸人だからこそ生み出せたものだろう。優しいツッコミの本質は優しさではなく、「理解できないものを理解しようとする」という人として当たり前の本能なのだ。(ラリー遠田)