海外でも愛される「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など多くのヒット作を書いた脚本家で文化勲章受章者の橋田壽賀子(本名・岩崎壽賀子)さんが4月4日、急性リンパ腫のため亡くなった。橋田作品に数多く出演し、私生活でも長年交流のあった俳優の泉ピン子さんが思い出を語った。



*  *  *
 私が出ていた明治座の舞台(「坂本冬美芸能生活35周年記念公演 泉ピン子友情出演」、第1部「かたき同志」は橋田壽賀子作、石井ふく子演出)にママ(橋田さんのこと)から熱海の「あげ煎餅」が段ボール1箱届いたのは2月の末でした。私が食べたいと言っていたのを覚えていてくれて送ってくれたんだと思います。箱には、

「ピン子ちゃん舞台頑張ってください。また帰ってきて会える日を楽しみにしています。 橋田」

 と手紙がついていた。でも、いつもとてもきれいなママの文字がどこかゆがんで乱れていた。

 これは変だなと思いました。

 ママが急性リンパ腫だと知ったのは3月になってからです。病院でママは手術を受けたのですが、病状は良くならない。もうそんなに長くは生きられないと知らされて東京で一人で号泣しました。舞台やっている最中で2回ぐらい倒れそうになった。

 ママは1カ月くらい入院した後、自宅に戻りたいと言って自宅で治療を続けることになりました。亡くなる前日までママは、

「ハアハアー、ハアハアー」

 と、とても苦しそうで、あんなママは見たことがなかった。見ていてかわいそうでつらかった。往診に来る医師は息が浅くてもうもたない、と。

「管を抜いて楽にしますか」

 と問われました。ママには親族はなく判断する人がいない。お手伝いさんの顔を見ると、

「ピン子さんお願いします」

 私だって困りました。何を言われるかわからない……。迷い悩んだけれど最後は、

「ママ、いいよね」

 と言って、先生に、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げました。

 4月4日にママの意識はなくなったのですが、午前7時30分ごろです、私が、「ママー!」と叫ぶと、聞こえたのか私のほうを見て一瞬目が大きく開いた。

 それからママはスーッと静かに目を閉じた。私にはまさに眠るように息を引き取った、と見えました。

 ママは他人に白髪を見られるのを嫌がっていました。だから、医師が来て死亡確認をしてから私が黒く染めてきれいに化粧をしてあげました。晩年のママは化粧をほとんどしなかった。化粧道具を探したら私が20年前にあげた口紅をまだ持っていたの。クルーズ旅行や正月に必ず身につけていた、橋田文化財団を設立した時に作ったお気に入りの松竹梅のドレスを着せて、旅立たせました。

 日頃、ママは「死んでも悲しまないでいい。千の風になっているんだから。あなたのまわりにいるから」と言っていた。だから「千の風になって」の曲を部屋に流して。お手伝いさんたちが歌いだしたので、私も歌いました。

 ママと初めて会ったのはもうずっと前、私がまだ20代だったはず。確か父ちゃん(橋田さんの夫、岩崎嘉一さん)から、「壽賀子、ピン子をよろしく」と紹介してもらったと思う。1978年のNHKドラマ「夫婦」に出た後、「あんたと一緒にやると視聴率が取れる」と言われた。

 しばらくしてNHKでばったり会った時、「お姫さまをやらない?」と声をかけてもらって「おんな太閤記」に。そしてその打ち上げで「おしん」の話をされました。朝ドラには乱暴に出番をカットされた嫌な経験があって、私は最初「朝ドラには出ない」と言ったら、

「おしんの母親だから絶対にカットされない」

 ママは口減らしのために子どもを堕す場面を書きたいと、その時言っていました。戦争のために生まれる貧しさや不平等さを書きたかったのだと思います。台本を読んだら「これは当たるぞ」と思いました。女性の側から戦争を描いたドラマはママが最初じゃないかしら。本当にすごい人だと思います。

 それ以降、ママのドラマにはほとんど出たし、私の代表作は全部ママのドラマ。40年以上にわたる友であり大恩人です。よくケンカもしたけれど、私にとっては母でありいちばんの理解者でした。

 ママは権力には屈しないという信条を持っていた。「いつでも降板する権利は持っていたい」という理由で、長いドラマをやっても契約固定給はもらわず1本あたりの脚本対価だけでした。

 気に入らないことがあると、テレビ局の社長から頼まれても「あなたに義理はないから書かない」と直接ハッキリ言っていた。

 ママに誘われて10年ほど前に熱海に移住して、何度も世界各国を海外クルーズで旅をしました。北極にも一緒に行ったしベトナムやジャマイカも。ママはいつも芝居がかっていて、

「一緒に行かないと、私はすぐ死ぬかもしれない」と言うんです。仕事を何カ月も空けて同行しましたが、忙しい時は私が「ギャラくれたらね」と言うと「じゃあいいわ」。あの人、花火も好きでよく一緒に行った。考えたらどこに行くのもいつも一緒でした。

 人が好きで寂しがり屋だったのかもしれません。毎日電話しないと寂しいのか、嫌みを言う時期もありました。

 ママからの「遺言」もありました。

「私が死んだらお世話になったお手伝いさんたちを連れて一緒に今治の(両親の)墓に行って。エンディングノートも書いた。お金も用意してあるから」

 と何回も言われていたのです。8日夜にママが好きだったサロンバスで熱海を出てみんなで今治まで10時間半かけて行きました。これはママの願いだと思って大騒ぎしながら9日午前に納骨してきました。

 とてもいい天気だった。こうやってにぎやかに納骨するのもママの希望だったと思います。今治のご両親の墓はママが数年前に橋田家の墓として立派なものに建てかえていたんです。

 恩人のママを最後まで看取って納骨を済ませて役目を果たしたという感じですね。まだエンディングノートは見つかっていません。

(構成/山本朋史)

※週刊朝日  2021年4月23日号