親の介護をしている、またはしたことがある人から、異口同音に聞かれるのは「自宅(在宅)での介護は大変!」というフレーズです。なぜ、大変と感じるのでしょうか。そこには、「介護をするあなたの、人生への疑問がある」と介護アドバイザーの高口光子さんは言います。介護と「人生への疑問」、いったいどんな関係があるのでしょうか。

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■お金や時間、身体的キツさが大変なんじゃない

「自宅(在宅)での介護は大変」。親の介護を経験した人も、いま、真っ最中の人も、年齢的にそろそろ考えなければならない人も、誰もがもっている共通認識ではないでしょうか。

▼介護保険を使うにしても、経済的に何かと負担が増える、▼なによりも介護に時間をとられて、仕事や家事、育児との両立がぎりぎり、▼不眠、暴力、弄便(ろうべん、自分の便に触ったりする)、外出して道に迷うなどの認知症の問題行動で目が離せず、体力に限界を感じる……これまで自分たちの生活のことだけを考えて回していた日常が、親の介護が加わることによってがらりと一変し、経済的・時間的・身体的に大変になることは容易に想像がつくでしょう。

 しかし、いちばん大変なことは、このような、いわば「物理的」な負担ではなかったのです。

 私がよりよい介護のプロを目指してまだ勉強中だったころ、在宅介護中の家族を対象にした厚生労働省のアンケートの調査結果を目にしました。いまでも強く心に焼きついているのは、「在宅介護で、なにが最も大変ですか」という設問への回答です。第1位は「いつまで、何のために介護が続くのかわからないこと」でした。介護の目的を見失って迷子の状態になっている、それがいちばん「大変なこと」だったのです。

■娘・息子・嫁だから、親子だから、が揺らぐとき

 これは20年前の調査結果ですが、介護の現場にいて、それは現在でもまったく変わっていないと思います。

 介護をし始めて最初のあいだは、いろいろきついな、しんどいな、と思いながらも、「私は娘だから・息子だから・長男の嫁だから、親の介護をするのは当然」「これまで育ててくれた親を、今度は自分が介護するのは自然なこと」と言い聞かせ、周囲もそれに合意してくれての介護生活です。

 ところが1年2年と介護が継続するにつれて、より深いところから、疑問がわき上がってきます。「それって本当?」「本当だとしても、私の人生を犠牲にしていいの?」「家族を犠牲にする介護って正しいの?」「介護がなかったら、自分はもっと違う人生が送れたはず」。

 そして、次には自己嫌悪が起こります。「こんなことを考えるなんて、自分は親不孝だ」「人として恥ずかしい」、さらには、「おとうさん(おかあさん)は、こんな薄情な子どもに介護してもらって幸せなんだろうか」と。

 介護の期間が長くなっていくと、自分の中で介護に何らかの意味づけを見いだせないと、つらくなってしまうのです。

■育児は迷うことなく突き進めるが…

 思い悩むあなたは、私たち介護職との話し合いのなかで、「いったいいつまで続くんでしょうかね」とぽろっと本心をこぼしてしまいます。そんなとき私は、介護と育児との違いを思い浮かべます。

 新生児、乳幼児は、自分一人ではなにもできない、例えてしまって申し訳ないのですが、いわば「要介護5」の存在です。育児は大変で、あなたは「いつまで続くんだろう」と悩むことはあっても、子育てには就学するまで、学校を卒業するまで、社会人になるまでなどの時間的な区切りがあり、それを目安に考えやすいという面があります。

 そして何より、赤ん坊の存在は、女性を母親に、男性を父親にし、生きる自覚をもたせてくれて、人生の方向性をつけてくれます。さらには「この子を産んで育てるためにも元気に生きていくんだ」と、人生の意味や生きがいまで与えてくれます。しかも、このような子どもから引き出された生きがいを、あなた一人だけでなく、親や親族、社会と共有することができます。そのため、育児は迷うことなく突き進むことができるのです。

 一方、介護はどうでしょうか。

「要介護状態のおとうさん(おかあさん)の人生を、快適に、安心してすごさせてあげたい」と考えても、どうしてもそこには空しさがあるでしょう。なぜなら、この介護が終わるときはつまり、おとうさん(おかあさん)とお別れするときだからです。状態に波はあっても長い目で見れば、もとの元気な姿に戻ることはなく、衰えていく一方だとわかっているからです。そして、介護が終わるときは親が死ぬときという空しいゴールが、いつ来るかわからない苦しさがあります。こればかりは、医師でも、私たち介護のプロでも、誰にもわかりません。しかも、家族や親族など、周囲の人の考え方が異なって、理解や協力を得られないこともめずらしくありません。

 だからこそ、介護には、何らかの意味づけ、自分なりの価値が必要になってくるのです。しかし、子どもだから、親だからといういわば社会的な役割による意味づけは、ゴールの見えない介護の継続のなかで容易に色あせて、あなたは進むべき道を見失ってしまうのです。

■一人で抱え込むと、親への虐待につながりかねない

 長く続く介護生活のなかで、介護の意味や意義を見失って迷子になるのは、当然のことです。それはあなたが親不孝だからでも薄情だからでもありません。そもそも人生百年時代の介護は、私たちの世代が初めてのことなのですから、今を生きる私たちならではの戸惑いといえるでしょう。

 とにかく一人で抱え込まないことです。心に疑問や不満を抱いたままでは、親に対してきつい言葉を投げてしまったり、無視したり、悪くすると虐待につながりかねません。

 ためらわずに、私たち介護のプロに打ち明けてください。ヘルパーでもケアマネでもかまいません、話しやすい人、気をゆるせる人に、グチのついでに話してみてください。

 私たちはまず話をよく聞いて、具体的な悩み、つまり経済的・時間的・身体的な問題から解決を試みます。たとえば、ここのところ母親の排せつの失敗が続いている、父親に何を言っても「イヤだ」の一点張りになったなど、改善可能なことが悩みのきっかけになっていることも多いからです。

 親の状態が悪くなったり、気持ちがぶつかり合って介護がスムーズに進められない場合には、介護スタッフがその原因を探り、効率的で効果的な対処法を見つけ出します。気持ちの面では、ヘルパーやケアマネという第三者が間に入ることで、親御さんも素直に妥協してくれることも少なくありません。それでも頑固な態度を崩さない場合には、「介護のプロでも説得できないんだから、私ができないのは当たり前。私のせいじゃなかったんだ」と、自分を責める必要がないと思えるようになります。

 仕事や家庭の事情で、時間的にきつくなった、負担が増したような場合には、介護サービスの内容を検討して、最大限、フォローできる方法を探ります。

 このように、具体的なことがらからかかわりをもって、あなたとご家族の本当の悩みを共有するのが、私たち介護職の仕事です。できることから改善して問題を整理すると、あなたの心を覆っていたもやが薄くなって、見えなくなっていた道筋が姿をあらわすかもしれません。

■迷ったら介護のプロに打ち明けて荷物を軽くする

「私の人生の疑問まで、介護の人に相談していいの?」と思われるかもしれません。

 介護職は、その家に入り、親御さんのからだに触れ、台所に立ち、下の世話をします。日常を支え、ある意味で、介護を受ける人やその家族の生活の一部になります。さらには最期の看取りまでさせていただくこともある。あなたが介護をきっかけにして、親との関係、自分の人生について悩んでいるのなら、私たちはできることからお手伝いして、一緒に考えていきたいと思っています。それが介護をするあなたの姿勢を整え、よりよい介護につながるからです。

「何のために、いつまで介護を続けるのか」。これは誰にも答えられない自分自身への問いかけです。誰もがもてる問いかけではありません。あなたは親の介護を真剣に考え続けたからこそ、ここまで来たのです。

 親の介護を考えることは、自分の老いや人生を考えることにつながっていきます。「いつまで、何のために介護をするのか」、この問いの答えを見つけることに焦るその前に、介護を続けている自分を肯定することから始めてみませんか。親と一緒に暮らして介護する、あるいは同居していなくても介護を優先して日常生活を送っている、それだけですごいことだと私は思います。今まで続けてこられただけで、胸を張っていいと思います。

 そして、一度、肩の力を抜いて、私たちに遠慮なく話をしてみてください。一緒に考えて、さらに先に進む、そのために介護職がいると思ってください。

(構成/別所 文)

高口光子(たかぐちみつこ)

元気がでる介護研究所代表

【プロフィル】

高知医療学院卒業。理学療法士として病院勤務ののち、特別養護老人ホームに介護職として勤務。2002年から医療法人財団百葉の会で法人事務局企画教育推進室室長、生活リハビリ推進室室長を務めるとともに、介護アドバイザーとして活動。介護老人保健施設・鶴舞乃城、星のしずくの立ち上げに参加。22年、理想の介護の追求と実現を考える「高口光子の元気がでる介護研究所」を設立。介護アドバイザー、理学療法士、介護福祉士、介護支援専門員。『介護施設で死ぬということ』『認知症介護びっくり日記』『リーダーのためのケア技術論』『介護の毒(ドク)はコドク(孤独)です。』など著書多数。https://genki-kaigo.net/ (元気が出る介護研究所)